サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(陶酔と狂気)

*「陶酔」(intoxication)という現象は、人間の生活の様々な局面において顕現する。それは現実に関する明晰な認識の消滅を意味し、理性的な自我の解体を齎すような経験の総称である。陶酔は様々な力によって齎される。アルコールやドラッグなどの薬物、スポーツやダンスなどの肉体的負荷を伴う行為、自慰と情事、音楽、ビデオゲーム、諸々の犯罪、自傷及び自殺、実に多様な行為が陶酔を醸成する基礎的条件として作用する。

 「陶酔」に執着し、その無際限な反復を希求することを「依存」(dependence)と称する。人間の依存する対象が極めて多様であることは広く知られた経験的事実である。依存を齎す対象の共通項は、それが「陶酔」という形で現実の「忘却」(oblivion)を人間に許可するという点に存する。陶酔は人間の意識を現実から切断し、或る閉鎖された幻想的な領域へ向けて拉致する。陶酔の裡に存するとき、人間は現実的な苦痛や煩悶から解放され、欺瞞的な浄化を味わうことが出来る。それは現実に存在する様々な苦悩(四苦八苦)を堪え忍ぶ為に案出された生物学的且つ心理学的な機制である。

 だが、陶酔は常に束の間の現象であり、仮に無限に持続して醒めることのない陶酔が有り得るとすれば、それは陶酔ではなく「狂気」(madness)と称されるべきである。我々は現実と幻想との間を自由に往来することの可能な存在であり、それこそが知性の爆発的な発達を喚起した最大の要因であることも事実だが、しかし現実から乖離した幻想は、それが幻想であるという自覚を欠いている為に、つまり現実として誤認された幻想である為に、夥しい弊害を産出してしまう。現実に基づかない認識と、そこから析出された判断は、不毛な空転に蚕食されるだろう。幻想の肥大は現実の意義の衰退を招き、生死の境界線を浸蝕し、我々を或る内在的な閉域へ押し込めてしまう。

 「陶酔」への飽くなき憧れと衝迫は「狂気」の予備的段階である。言い換えれば、狂気の濫觴は常に現実的な苦痛からの遁走の裡に育まれる。我々が狂気への頽落を免かれる為には、現実的苦痛に対する冷静で公正な注視が不可欠である。陶酔を齎す様々な対象への欲望は、現実的な欲望ではなく、建設的な性質を欠いている。それは欲望の現実的な充足を目指すものではなく、寧ろその堪え難く不可避的な挫折に水源を有しているのだ。

 陶酔への欲望は、逃避的な欲望であり、現実的な根拠を備えていない。従ってそれは、現実的な充足へ到達することを原理的に禁じられている。陶酔は現実的な欲望を通じて獲得される筈の幸福の代理的対象である。本当に欲しいものが手に入らないとき、人間は陶酔を通じてその苦痛の強度を軽減し、忘却の裡に安らぎを求める。従って、如何なる過激な外貌を纏った陶酔であっても、その根本には臆病な精神が鎮座している。しかも陶酔は決して本質的な充実を喚起せず、その欠如を補完する力しか有していない。幾ら陶酔を積み重ねても、我々は我々自身の飢渇を忘れるだけで、本来的な充実へ至ることは出来ない。寧ろ陶酔は現実的な感覚を摩耗させる為に、現実的な欲望の達成を一層困難な夢想に作り変えてしまうのである。

 我々が本質的な幸福を願うのならば、陶酔は断乎として忌避すべき不埒な悪習である。陶酔よりも覚醒を求めなければ、我々の欲望が本来の対象に到達することは出来ない。換言すれば、現実に対する適切な注視だけが、我々の欲望を実質的な充足へ導く唯一の道程なのである。