サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「共感」の超越)

*「共感」によって基礎付けられた紐帯は、狭隘な範囲に限って成立する。言い換えれば、感覚や思想や信条や文化に就いて、一定の同質性が保持されている領域においてのみ、辛うじて成立する危うい均衡の所産である。

 この「共感」の最も典型的な実例は「家族」であると言えるだろう。同じ住居に暮らし、同じ地理的共同体の裡に集住して、同じ時間を過ごすことで形作られる同質的な感覚が「共感」に基づいた連携や意思疎通を可能にする。相互に同質的な文脈を共有することで形成される「共感」の共同体は、直截な意思疎通を齎すゆえに居心地が良い。少なくとも「共感」の原理が円滑に作動している間は、成員は快適な関係性に置かれるだろう。

 しかしながら「共感」の原理を、物理的な「近さ」によって成り立つものであると考えるならば、それは普遍的で汎用性に富んだ「共同体」の構築には相応しくないと結論することになるだろう。「共感」によって成立する共同体においては、言語よりも「無言の諒解」のようなものが重要な価値を担い、積極的に称揚される。言語を介さずとも「無言の諒解」によって意思の疎通が成り立つのは、表情や挙措といった非言語的振舞いの解読において、同質性が非言語的な「媒介」の役割を果たしてくれるからである。言い換えれば、非言語的な文脈の共有が十全に推し進められ、保持されている関係性においては、言語に課せられている役割は大幅に縮小され、言語そのものの指し示す「意味」の内容は、いわば文脈から遊離した断片的な性質を備えるようになるのである。

 認識の共有が進められ、言語によって厳密に明示せずとも、相互の意図が汲み取れる状況というのは、快適な関係性であると言える。けれども、そのような共同体が異質な他者に向かって閉鎖的な性質を発揮することもまた事実である。余所者に冷淡な閉鎖的共同体は、濃密な「文脈」の共有によって成り立ち、その「文脈」に依存することでコミュニケーションのコストを大幅に節約している。この「節倹」が異質な他者に対しても同様に適用されるとき、そこには「無言の諒解」の代わりに「無言の拒絶」が顕現することとなるだろう。

 「共感」は「阿吽の呼吸」を齎す。しかし、重要なのは既に成立している従来の「阿吽の呼吸」に依存することではない。一つの環境に長く留まる人間は、その環境の内部においては絶妙な「阿吽の呼吸」を発揮することで、他者との宥和的な関係を保持することが出来るだろう。けれども、それは人間に備わっている自動的な性能のようなもので、同質の環境に長く所属すれば、規範的に明示されない諸々の「不文律」に通暁することは当然である。問題は、そのような「文脈」の共有が成立しない環境に分け入り、適応を遂げる為の方法の把握と実践である。慣れ親しんだ共同体が永久に堅持される絶対的な保証は地上の何処にも存在しない。

 「阿吽の呼吸」は素晴らしい。それが成り立つほどに関係性を深め、文脈の共有を推進することが出来たならば、それは人間的な矜持に値する。けれども、事前に投げ与えられた「共感」の秩序の裡に留まり、絶えず「阿吽の呼吸」が成立する範囲の外部へ踏み出そうとしない保守的な退嬰は厳密に批判されるべきである。そういう人々は「無言の諒解」の素晴らしさを誇大に吹聴し、言葉を尽くさねば互いの意思を汲み取ることの出来ない関係性を「空疎なもの」として排撃したがる。だが、そんな不毛な怯懦と怠慢に埋もれて生きているようでは、新しい世界の扉を開くことなど出来ない。年がら年中、同じ景色を眺めていれば、その細部に至るまで審らかに通暁するのは当然の帰結であろう。それをただ誇示するだけでは単なる鼻持ちならない面倒な「先達」に過ぎない。

 端的に言えば、異質な文脈に属する他者と意思の疎通を図る為には、我々は非言語的な表象に頼り過ぎてはならない。自分の推察が高い頻度で相手の抱懐する心理的事実を射抜くということは、往々にして「文脈」の濃密な共有によって支えられた現象なのであり、異質な他者とのコミュニケーションにおいては、そのような「予測」や「察知」よりも「言語的な確定」の煩瑣な蓄積の方が肝腎である。「恐らくこういう意味であるに違いない」という推察が高い精度で事実を言い当てるのは例外的な「奇蹟」であり、その「奇蹟」は「文脈」の濃密な共有が既に成立している環境においてのみ到来する。そのような「恩寵」に基づいて円滑なコミュニケーションを保持することと、異質な他者との間に「文脈」の共有を蓄積していく地道で報われ難い努力とは、次元の異なる問題である。豊饒な果実の美味しさを味わうことと、豊饒な果実を丹念に育て上げることとは全く異質な作業なのだ。

 「阿吽の呼吸」を異質な文脈に属する他者との間に構築していく為には、一旦「共感」の思考を手放さなければならない。安易に「共感」が可能であると信じ込むことは、他者の異質性に対する安直な毀損に他ならない。「分からないものを分かったように振舞う」という表層的な作法で真正の「共感」を構築することは不可能である。「無言の諒解」を諦めて地道に「言葉を尽くす」以外に「阿吽の呼吸」の創出へ至る方途は存在しないように思われる。言い換えれば「文脈の異質性」を理由に「共感」の構築の絶対的な不可能性を立証する必要はないのである。「無言の諒解」の甘美な安逸を貪ることに慣れ親しんでしまった幸福な人間ほど、異質な文脈に属する他者へ向かって架橋する能力は衰弱していく。そうであるならば、寧ろ「孤独」こそ「阿吽の呼吸」を創出する為の可能性の宝庫なのである。「共感」の創出は「共感」の超越によってのみ成り立つ。「阿吽の呼吸」の不在は、我々にとって必ずしも不幸な事柄ではないのだ。