サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「国家」に関する覚書 9

 プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 プラトンの強力な二元論的思考において、最も基礎的且つ重要な区分は「生成するもの」と「実在するもの」との峻別である。「生成するもの」は、我々の肉体的感覚を通じて把握される現象としての事物であり、一方の「実在するもの」は、感覚によっては決して把握されることのない、純然たる思惟の対象としての理念的な事物である。プラトンは、この弁別に関して異様なほど厳格である。彼にとって「教育」とは単なる知識の授与を意味するものではない。各自の知性が差し向けられる対象を「生成」から「実在」へ移行させることが、プラトンにおける「教育」の本質的な企図なのである。

 プラトンにおける「思惟」は、認識に関して「厳密さ」の極北を執拗に追求する。そうでなければ、思惟することは、茫漠たる感性的認識と何も隔たるところのない営為であるということになってしまうからだ。言い換えれば、彼が企てたのは感性的認識の厳密な明晰化である。不完全で流動的な知識は本来、知識の名に値しない。それは単なる受動的な認識であり、理性による厳格で行き届いた検討を経ていない。

 プラトンの理路に反発する者は、例えば我々が認識し得るものは感性を通じて把握される「生成界」の事柄に限られており、思惟を通じて把握される「実在界」の事物は総て人間の理性的機能が生み出した「仮象」に過ぎないと断じるかも知れない。だが、厳密に考察を進めるならば、こうした批判は致命的な威力を欠いているように思われる。若しも「実在界」に属すると目される事物が悉く理性的仮象に過ぎないならば、肉体的な知覚を通じて我々の意識に映し出される諸々の感性的情報もまた、一つの人為的な(或いは「生物学的」)仮象に他ならないと考えるべきだろう。視覚という一連の肉体的な機能は、光を媒介として外界の事物を感性的な情報に置換する。この置換によって得られた認識が、肉体の力によって形成された「仮象」であることは明白である。煎じ詰めれば、感性から出発しようと理性に依拠しようと、何れにせよ一切の認識が人間的仮象であることに変わりはないのである。それならば、感性と理性とを比較して、何れか片方のみを「仮象」であると批難することの無益な滑稽は明瞭である。仮象であることが認識にとって罪であり不当な欺瞞であるならば、我々は一切の認識から手を退き、全面的な晦闇の裡に沈没せねばならない。

 認識が悉く仮象であるならば、仮象であることを認識の蹉跌として定義する総ての思考は棄却されねばならない。重要なのは、有益な仮象と無益な仮象とを弁別し、銘々の仮象の特質を理解し、目的に応じて様々な認識の手段を柔軟に組み替える「編輯」の技術に熟達することである。感覚的認識を絶対化する極端な経験論が斥けられるべきであるのと同様に、理性的認識だけに「真理」へ至る権利と能力を認める極端な合理論もまた排斥されるべきである。その意味では、プラトンの「生成界」と「実在界」に関する差別的な議論を鵜呑みにしないことは重要な心得であると言える。しかし、プラトンが次のように述べていることを、不当に看過してはならない。

 されば君たちは、各人が順番に下へ降りて来て、他の人たちといっしょに住まなければならぬ。そして暗闇のなかの事物を見ることに、慣れてもらわねばならぬ。けだし、慣れさえすれば君たちの目は、そこに居つづけの者たちよりも、何千倍もよく見えることだろう。君たちはそこにある模像のひとつひとつが何であり、何の模像であるかを、識別することができるだろう。なにしろ君たちは、美なるもの、正なるもの、善なるものについて、すでにその真実を見てとってしまっているのだから。(『国家』下巻 岩波文庫 p.121)

 この重要な訓誡は、仏教における「入鄽垂手にってんすいしゅ」の教義を想起させる。解脱して輪廻転生の境涯を離れた者が、衆生を救済する為に俗世に帰還するように、プラトンは「実在界」の叡智に目醒めた者が、そのまま超越的な境位の裡に留まることを批判する。彼は「実在界」に関する理性的知識を「生成界」における感覚的認識に断固として優越させるが、生身の人間が「生成界」の裡に生き死にする宿命に縛られているという現実から眼を背けようとは考えていない。「世俗の論理を超越した人間にこそ、世俗を支配する権利と資格は与えられるべきである」というのが、プラトンにおける政治学の要諦なのである。

 極めて粗雑で卑俗な言い方を用いれば、プラトンが幾度も注意を喚起しているのは、肉体的感覚に映じる生成的認識に振り回され、錯覚や謬見に欺かれないように努めなさいということである。事物の表層に囚われるのではなく、眼に見えるものだけを信じるのでもなく、理性的な思惟を通じて、事物と世界に関する不可視の構造を正しく適切に把握しなさいということが、プラトンの教義の枢要なのである。それは感覚的認識の限界を突破するということであり、感性によっては捉え難い世界の構造を、理智の力を駆使することで捉えようとする意志の敢然たる表明である。その為に、プラトンは理性的機能を操る技法に就いて精密な議論を展開し、蓄積した。理性の厳密な運用の確立、こうしたプラトンの問題意識が後世に及ぼした影響の大きさは計り知れない。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)