サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(未知なる誘惑者)

*人間の知的な好奇心は何によって煽られ、駆り立てられるのだろうか? 言い換えれば、我々の存在と精神を知的好奇心の情熱が刺し貫くとき、一体何が、そのような興奮を浮揚させているのだろうか?

 何かを知りたいと熱烈に願うとき、我々が期待している「邂逅」は如何なる性質を帯びているのだろうか。一つの手懸り、一条の補助線を持ち出すならば、先ず前提としてそれは「未知」に関わっていると考えることが出来るだろう。既に理解し、知悉している事柄に就いて、我々は情熱的な好奇心を燃え上がらせることが出来ない。既知の事柄を既知の通りに確かめるだけならば、燃え上がるような情熱の出番は存在しないからである。

 「未知」の事柄だけが、我々の内なる「理解」への欲望を高揚させ、励起させる。だが、我々は必ずしも一切の「未知」に就いて等し並みに好奇心の焔を捧げる訳ではない。我々の「未知」に対する関心の強度には斑がある。そもそも、我々は四囲を完全な「未知」に覆われたとき、知的な興奮に駆られるよりも先に、途方に暮れて、恐怖と絶望に総身を射竦められてしまうのではないだろうか。如何なる手懸りも存在しない完全な「未知」は、我々の実存を委縮させ、欲望を減退させる。だから、未知であるという条件だけで、知的誘惑の構造を適切に解明することは出来ないと言うべきである。

 寧ろ我々は「既知」で織り成された平坦な日常の合間に垣間見える束の間の「未知」に惹かれるのではないか? それは「既知」によって覆われた我々の日常的秩序を当惑させる些細な「エラー」である。「異物」であると言い換えてもいい。臆病な人々は、そのような「異物」を迅速に視野の域外へ放逐することに並々ならぬ情熱を燃やすだろう。彼らは「異物」を咀嚼する知的な体力も野心も欠いているのである。或いは人間も生身の動物であるから、心身の健康が優れない場合には、そうした「異物」と関わり合う余裕を確保し得ないということもあるだろう。

 例えば小説を読んでいて「これは一体どういうことなのだろう?」という疑念に駆られるときというのは、何でもない平坦な叙述の狭間に埋め込まれた不可解な「突起」に躓くときである。端から端まで「未知」で埋め尽くされた小説を、我々は読解出来ないし、そもそも「異物」の存在を検知することさえ出来ない。或いは、恋に落ちるときも同断ではなかろうか。或る時、不意に旧知の間柄にある人物の相貌が、何故か特別な輝きを伴って我々の眼前に迫り出してくる。それは、その人物が俄かに「異質な側面」を我々の眼前に露呈したことの結果である。俗な言い方を用いれば所謂「ギャップの魅力」という奴である。乱暴な不良少年が憐れな捨て猫を拾っている姿を偶然に目撃するという例え話が一般に、こうした「ギャップの魅力」の説明に際しては頻々と引用される。つまり、従来の不良少年の行動規範から逸脱する「異物=未知」の登場が、我々の好奇心に点火するのである。

 従来の理解の枠組みと矛盾するような異質性に逢着したとき、我々の批評的欲望は覚醒する。従来の理解の枠組みを改訂しなければ説明することの難しい事物との邂逅が、我々の好奇心を煽情的に誘惑するのである。何でもない文章だと思って読み進めていたら、不意に文脈に相応しくない言葉が砂利のように歯へ当たる。この違和感の原因は何なのかと、探究の欲望が起動する。そこには明らかに秘められた事実への手懸りが、或いはドアノブが埋め込まれているのである。

 この「異物感」が、我々の存在を誘惑する。それまでの我々の認識論的な布置を覆し、震撼するような「砂利」の感覚が、その「未知」の正体へ向かう欲望を喚起するのである。「恋に落ちる」という感覚は、それまで信じ込んでいた世界観の瓦解を伴う。言い換えれば、こうした「異物感」は、我々の世界に関する視野に映じる「風景」を塗り替えてしまうのだ。今まで知らなかった世界を開示するもの、それが「誘惑者」の定義である。そして、その「誘惑者」は退屈な日常の随所に潜む些細な「異物感」として登場し、我々の反復的な生活に参入する。些細な「異物感」に敏感であることは、優れた批評家としては重要な資質であろう。誰もが容易に看過する些細な「異物感」に対する過敏な反応性が、我々の視野を塗り替える最初の引鉄であるからだ。誰もが黙殺する事物の「異物感」を余人に先駆けて検知し、その正体を考究しようと欲することが批評的資質の本懐である。「異物に誘惑されること」は、或る種の人々にとっては絶大な快楽の源泉であり、別種の人々にとっては堪え難い不快の要因なのである。