サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(批評から創造へ)

*最近「カクヨム」というサイトに自作の小説を投稿している。今は未だ、書きかけのまま眠っていた作品を電子的な筐底から埃を払って取り出し、焼き直しに明け暮れている段階だが、在庫が払底すれば新たな作品を書く積りである。

 不意に何故、小説を書くことに血道を上げ始めたのか。総ての理由を明瞭に自覚している訳ではない。要するに、批評家的な立場(それは私が優れた批評家であるという意味では勿論ない)に安住して彼是と小手先の理窟を捏ね回すことに飽きたからである。人の作品に就いて益体もない似非評論を書き並べたところで、少しも偉くならない自分に気付いたからである。

 例えば私はこの数年、専ら三島由紀夫の小説を読んで感想文を認める作業に労力を費やしてきた。その御蔭で三島の作品に対する理解度は向上したように思うが、だからと言って、新しい人生の境涯が拓ける訳でもない。私は小さい頃から小説家に憧れて、ずっと創作の真似事に熱中してきたのだが、近年は自分の才能の欠如を自覚して、創作への情熱は遠い残響のように薄れていた。生計を立てる為の日々の仕事に力を注ぎつつ、市井の読書家として雑多な評論を書き散らし、貧しいアクセスを稼ぎながら、醜い承認欲求の慰謝に明け暮れる日々も存外悪くないと、達観の境地に落ち着きつつあったのである。その達観が本物ならば何の不都合もない。だが、実際には、自分は空虚を抱えているのではないだろうかと思った。他人の小説を如何に犀利に解剖してみせたところで、その作品を創造した人間の労苦には遥か及ばない。自分の手は一切穢さず、他人の労役の成果を彼是と沈着に論評するのは、下賤の所業ではなかろうか。実際、ネットの世界には、文学に限らずとも、そういう手合いが山のように氾濫している。他人の行動を論評することに莫大な精力を蕩尽する好事家たち。彼らがどんな生活を送っているのかは知らない。だが、例えば三島由紀夫の作品を冷淡に一蹴する無名の素人評論家たちが、果たして三島由紀夫ほどの刻苦勉励を現実の世界で積み上げているか、その点に就いては非常に疑わしい。眼高手低の自己を恥じず、他人の苦闘を下らない愚行として嘲笑う謎めいた輩。彼らの同類である自分に、私は虚しさを覚えた。

 自分に才能があるかどうかなど、やってみなければ分からないのに、私は大した努力もせぬまま、自分には才能がないという結論を前借して、それで己の無為や怠惰を甘やかしてきたのではないか。最善を尽くさず、かといって文筆の夢を完全に断念する潔い決意とも無縁のまま、中途半端な立場に甘んじて、己の根を腐らせていたのではないか。才能の有無を問う暇があったら、さっさと小説を百篇でも二百篇でも書き上げてみたらいい。そうすれば本当に、掛け値なしの診断結果が自ずと出るだろう。そういう考えに基づいて、「カクヨム」という格好の場があるのだから、思い切って小説を百篇くらい書いてみよう、彼是と思い悩んで立ち止まることなく、夢中で行動に移してみようと決心した。従って、ブログの更新は間遠になると思われるが、誰が困る訳でもないだろうから、己の決心に従って、己を律したいと思う。