サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「パイドロス」に関する覚書 2

 プラトンの対話篇『パイドロス』(岩波文庫)に就いて書く。

 「パイドロス」の主要な議題は所謂「弁論術」(techne rhetorike)である。前半において詳細に論じられた「エロス」(eros)に関する相互に対極的な二つの学説は、弁論術の恣意的で詭弁的な性質を露わに告示する為の手続きであると考えられる。同一の主題を扱いながら、対蹠的な立論が共に成り立つということは、その議論が事物の「本性」(ousia)に即していないことを暗示している。

 プラトンの弁論術に対する批難は、それが「真実」の確定を求める代わりに「真実らしきもの」の捏造に注力しているという点に向けられている。同一の主題に関して、賛成であろうと反対であろうと、何れの場合にも尤もらしい(つまり「真実らしい」)議論を樹立することが可能であるのは、弁論術の技巧が根本的に「真理」の把握を目的としていないことの必然的な帰結である。弁論家たちは他者の歓心を購い、人々の欲する意見を先回りして贈与する。弁論家にとって重要なのは、聴衆が彼の意見を正しいと認め、心から受容することであり、それに比べれば彼の意見の「真贋」は副次的な問題に過ぎない。こうした弁論術の本質を、プラトンは「迎合」(kolakeia)という言葉で要約している。弁論家の目的は「真理」の把握ではなく、特定の見解を紛れもない「真理」であると聴衆に信じ込ませることに尽きているのだ。従って聴衆の信頼さえ得られるのならば、その見解が「真理」や「本質」に適っている必要はない。

 プラトニズムの本領は「真理」の絶対的な希求と、その精密で徹底的な「論証」の過程に存する。その観点から眺めるならば、弁論家たちの駆使する変幻自在の「詭弁」は堪え難い欺瞞に思われただろう。「迎合」と結び付いた弁論術は、他者を説得し感服させる為ならば如何なる論理的欺瞞も辞さない。普遍的な「真理」に対する忠誠の代わりに、彼らが重んじるのは「真理」の「複数性」及び「相対性」に対する信仰である。文脈に応じて変貌を繰り返す玉虫色の「真理」こそ、迎合的な弁論家たちの栄光を成り立たせる「秘鑰」なのであり、普遍的な「真理」は却って彼らの業務を妨げる障碍となりかねない。「エロス」に関する「両論併記」は、これらの学説が普遍的な「真理」に達していないことの明確な傍証に他ならないが、狡猾な弁論家にとっては、こうした「両論併記」を容認する難解な主題こそ、最良の「獲物」なのである。

 或る主題に関して、極めて強固な社会的合意が成立している場合には、弁論家の巧妙な話術が活躍し得る余地は乏しい。けれども、固より統一的な見解を欠いているような論題に就いては、如何なる学説も等しく「真理」の尊称を勝ち得る可能性を秘めている。弁論家たちの狡智は、こうした不確定で曖昧な領域に分け入ることで、最も華々しい成果を稼ぎ出す。彼らは聴衆の信頼を買い漁り、人々の潜在的な欲望に応えることを何よりも優先して、壮麗な「ロゴス」(logos)の伽藍を建設する。彼らの作り出す精緻な論理は、真実の粗描ではなく、聴衆への巧妙な阿諛追従なのである。

 「論争」と「問答」の区別は、プラトンにとって重要な意味を孕んでいる。「論争」の目的は相手の言い分を打ちのめし、自己の学説の正しさを満座の聴衆に認めさせ、厳格な論証や公平な分析よりも、好意的な「印象」を勝ち得ることに特化している。一方の「問答」は言葉による闘争ではなく、共通の目的である「真理の把握」に向かって論理を積み重ね、議論の勝敗や優劣ではなく「たった一つの真実」へ互いに手を携えて辿り着くことに至高の価値を置いている。プラトンの弁論術に対する批判は、弁論家たちが「真理」を不要と看做し、自己と聴衆の利害に応じて、相対的な正しさを次々に捏造する点に向けられている。

 ソクラテス それならば、弁論家が、何が善であり悪であるかを知らないでいながら、同じように善悪をわきまえぬ国民をつかまえて、説得しようとする場合を考えてみよう。この場合彼は、「驢馬の影」といったささいな事柄について、馬とかんちがいしながら、賞讃の言葉を作るというのではなく、悪について、それを善と信じながらそうするのである。もしこの弁論家が、群衆の思わくというものを研究しつくすことによって、善い事柄のかわりに悪い事柄を行なうように説得するとしたら、君はどう思う? 彼の弁論術は、こうして蒔いた種からあとでどのような収穫をおさめるだろうか。(『パイドロス岩波文庫 pp.114-115)

 「真理」を弁えずに他者を説得し、群衆を悪徳へ向かって嚮導するソフィストたちの振舞いを、プラトンは痛烈に弾劾する。恣意的な弁論を通じて生み出される複数の相対的な「真理」は、彼の信仰する普遍的な「真理」の概念とは全く相容れない。プラトンが「ディアレクティケー」(dialektike)を重視するのは、論争に勝利し、自己の見解を「真理」の玉座へ推戴する為ではない。他者と共同で普遍的な「真理」へ到達する為の慎重な登攀が、その本質的な企図である。「彼の言うことはいつわりである。彼はけっして技術ではない。むしろ、技術としての資格をもたない一つの熟練にしかすぎぬ」(p.116)というのが、弁論術の実情に関するプラトンの言い分なのだ。

 感覚や情動に依拠する思弁は、プラトニックな「真理」を隠蔽する障壁に過ぎない。そして弁論術の実情は、聴衆の感覚や情動に訴求することで何らかの利益を得ようとする営為であるから、弁論家たちは「真理」から疎外されざるを得ない。尤もプラトンは、弁論術そのものを否定しているのではなく、その生成的で現象的な性格を批難しているのである。彼は「真理」に依拠した「弁論術」としての「ディアレクティケー」を提唱し、その崇高な意義を主張する。言い換えれば彼は「真実の弁論術」と「虚偽の弁論術」を区分するという持ち前の手法を駆使して、巷間に横行する不正な「熟練」の称揚を阻もうと試みているのである。

 こうした企図を実行に移すに当たって、プラトンが依拠するのは初期の対話篇において頻繁に顕れる「アポリア」(aporia)の概念である。相手の論理を敷衍し、その矛盾を明示することによって、相手の論理の正当性を自壊させるソクラテス的な叡智が、プラトンの提唱する「ディアレクティケー」を支える核心的な要素なのである。彼は「真理」の価値を等閑視し、専ら「真実らしさ」の追求に明け暮れる通俗的な弁論術の内包する矛盾を焙り出す。「真理」の内実を理解しない人間が、何らかの事実を「真理」として仮構することは出来ない。こうした批判は、通俗的な弁論家たちの信奉する次のような論理を破壊する効果を備えている。

 パイドロス その点については、親愛なるソクラテス、私は次のように聞いています。つまり、将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しい事柄ではなく、群衆に――彼らこそ裁き手となるべき人々なのですが――その群衆の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには、ほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われるであろうような事柄を学ばなければならぬ。なぜならば、説得するということは、この、人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから、とこういうのです。(『パイドロス岩波文庫 pp.112-113)

 こうした議論は様々に変奏されながら、現代の社会にも根強く息衝いていると言えるだろう。「正義の相対性」という考えは、聊かも奇異な概念ではない。それに対してプラトンは「真理」の把握を抜きにして「正しいと思われる可能性のある事柄」を判別することは出来ないと反駁する。「そのような真実への類似を最もよく発見することのできるのは、いつの場合でも、真実そのものを知っている者なのだ」(p.159)というのが、彼の申し立ての要旨である。

 こうした議論を踏まえて言えることは、プラトンが決して「真理」の高みに逼塞することを肯定していないという点である。彼は不正な弁論術の横行を指弾するが、それは弁論術そのものの廃絶を欲する為ではない。対話篇「国家」に登場する著名な「洞窟の比喩」においても、彼は「真理」を観照した者が、生きながらにして「幸福者の島」に留まることを戒めている。世界を「実有=仮有」の二項に区分し、その優劣を論じる手法はプラトンの常套であるが、彼は決して「実有」の境涯へ安住することを奨励している訳ではないのだ。「実有」を踏まえた上で「仮有」の世界に生きることが、彼の信じる「徳性」の要諦である。「真理」を識別した上で、弁論術の多彩な技巧を駆使することが肝腎なのだ。こうした倫理的規約が、彼の哲学を「神秘主義」への飛躍から救済している。「実有」への移行の不可能性、これがプラトンの思想の「節度」なのである。

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)