サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

柄谷行人「哲学の起源」に関する覚書 1

 柄谷行人の『哲学の起源』(岩波現代文庫)に就いて書く。

 中学生の頃、偶々父親の書棚から、カヴァーのない年季の入った『意味という病』の単行本を発掘して、何の予備知識も持たずにパラパラと頁を捲り始めたときの、あの不思議な昂揚は今でも頭の片隅に残雪のように滲んでいる。書かれている文意の半分さえ、当時の私の知識と知力では理解し難かったのに、そこに何か重要な真理が記されているような気がして、幾度も挑戦しては挫折しながら、私は黄ばんだ紙片に刻まれた抽象的な活字の行列を辿り続けた。小説や物語ばかり読んでいた私が、観念的な思索の世界へ通じる扉に初めて指先で触れたのは、柄谷氏の導きによるものである。

 本書は古代ギリシアイオニアに発祥する自然哲学の特質を論じることから始まり、一般に西洋哲学の立役者として扱われるソクラテスの思想を分析するところで一応の幕切れを迎える構成となっている。けれども著者の論述の意図は、純然たる哲学史の講義を展開することに存するのではない。そもそも氏は、哲学を宗教や政治と区分することに有益性を見出していない。実際、人間の頭の中身が、図書目録の範疇のように截然と切り分けられている筈はなく、誰もが特定の分野の徹底的な専門家として、いわば一個の精緻な社会的機能のように生活を送っている訳でもない。画家が音楽に親しまない訳ではないし、政治家が草むしりや電球の交換をしない訳でもない。

 ソクラテス以前の古代ギリシア思想の内実を解明することは、極端に乏しい資料の為に、数多の先賢の奮闘にも拘らず、宿命的な難航を強いられ、構造的な限界を科されている。従って、後代の人間による分析や解釈は不可避的に、恣意的な偏見を多く含むことになる。けれども、そもそも一冊の書物に封じられた複合的な意味を完全に客観的に汲み取り、抽出することは原理的に不可能である。書物を読むことは必ず想像的な補填の作業を要請する。それを書いた人間と、それを読む人間とが完全に同一の組成を有する人間でない限り、必ず読書の現場には意味的な「余白」が生じる。読書による理解は、鏡像的な反映ではない。意味は、能動的な創出の対象なのである。

 イオニアの自然哲学に関する著者の論述は、純然たる哲学史の記述ではなく、寧ろその政治的含意に主要な焦点が充てられている。言い換えれば、イオニアの自然哲学と政治的特性とは不可分の要素として包括的に把握されている。ハンナ・アーレントの議論に依拠しながら、著者が提示する「イソノミア」(無支配=自由)の概念は、アテナイで発達した「デモクラシー」(democracy)と絶えず対比されながら、現代の自由主義=民主主義の複合体を超克する理念として肯定的に扱われている。つまり、イオニア哲学史に就いて論じる作業と、現代の「自由民主主義」という奇態な政治的理念(何故なら著者の定義によれば、本来「自由主義」と「民主主義」とは相互に対立する概念であるから)の内在的矛盾を解決する方途を模索する作業とは、密接に相関しているのである。著者が「イソノミア」に就いて論じ、その特質を焙り出す手段としてイオニアの自然哲学の再検討に着手するのは、現代的で実存的な「政治」の問題に関して新たな展望を拓く為なのだ。

 一般に「ソクラテス以前の哲学者」として定義される古代ギリシアの思想家たち、タレスからデモクリトスに至る賢者の系譜は、アリストテレスによって「自然哲学」の範疇に拘禁された。イオニアの先賢たちは専ら自然現象の考察に没頭し、倫理学的な知見とは無縁であったと看做すことによって、アリストテレスは師父であるプラトンと共に、ソクラテスの聖化に努めたのである。こうした思想的動向が、アテナイイオニアに対する政治的優越の確立と符節を合しているというのが、著者の見解である。イオニアの思想家たちの真筆が殆ど現存せず、彼らの教説に触れる手段としてはアリストテレスの引用及び論述が最大の資料であるという現状が、このような傾向に拍車を掛けている。言い換えれば、純粋に客観的な哲学史というものは存在せず、それ自体が政治的影響の下に編纂されているのである。その意味でも哲学という分野を、宗教や政治と無関係な領域として抽出する努力が、現実的な妥当性を欠いていることは明らかである。

 「自由民主主義」(liberal democracy)という政治的概念は、自由主義と民主主義の歴史的な癒合を通じて形成された制度であり、そもそも拭い難い内在的葛藤の発生する要因を含んでいる。個人の自由と、成員の平等とは必ずしも合致せず、寧ろ積極的に背反する場合が多い。他方、著者の提示する「イソノミア」の概念は、自由と平等との相剋を超越する制度として称揚されている。それは「無支配」を意味し、定住的社会における階層化の累積からの絶えざる脱却を含意している。こうした政治的希望が、果たしてどれだけ現実的な有効性を備えているのか、率直に言って心許ない。けれども、自由民主主義の政体を「人類が到達した最終的な形態」(p.26)と看做す膠着した惰性的思考に屈するより、浮薄な希望を信じて行動する方が遥かに生産的であることは疑いを容れない。

哲学の起源 (岩波現代文庫)

哲学の起源 (岩波現代文庫)