サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「夜行列車」 1

 謙輔は仄かに甘い香りの立つ莨に火を点けた。橙色の眠たくなるような灯りが立ち籠める閉店間近の喫茶店は、平日の夜の、閑散とした疲労の色彩に埋もれていた。時計の針は九時を回り、喫煙席の区画にいるのは、寡黙で顔色の冴えない勤人だけだ。皺の寄った薄暗いスーツに、一日の労働の成果である脂汗が、きっと抹香のように染みているに違いない。
 待ち人は九時半を過ぎるだろうと連絡を寄越した。謙輔は小さく光る携帯の画面を無言で凝視しながら、指先だけを迅速に動かした。待ち人に会えない時間も、こうして電子的な小匣を通じて、隔てられた距離を一瞬で飛び越え、幾らでもメッセージの取引が行われる。貴方の許に今すぐ飛んでいきたいという古典的な科白に充塡された感情の熱量は、通信技術の発達に伴って随分と減殺されただろう。会えないことの切なさを、電波の力が稀釈してくれるのだ。
 だが、それでも所詮、文字は文字に過ぎないと謙輔は考えた。実際に会わない限り、その存在の熱量を確かめることは誰にも出来ない。会うことの意味は、例えば性欲の充足という問題に集約される訳ではない。人々は密会の目的を、直ぐに即物的に捉えたがる。道徳的に気高い人々ほど、猶更そうした断定の傾向が強い。そうやって問題を自由に縮約するのはあんたらの勝手だが、実際の感情はそんな単純なものじゃないと、謙輔は見知らぬ廉潔な人物に向かって、心の中で唾を吐き掛けた。誰でも単純化して事態の経緯を解釈したがる。俯瞰的に、まるで禿鷹が獲物を狙うように。それは他人の勝手だ。そいつらの言い分に、先回りして屈服してみせる必要はない。
 清掃の行き届かない自動ドアが生温い速度で開いた。携帯の放つ光に疲れた双眸を瞬かせて、謙輔は出入口に視線を転じた。白いサンダルを履いた陽子の足許が、視野の下辺を掠めた。紅いマニキュアが恐らく今夜の為に塗り直されて艶やかに濡れている。華奢な足首が僅かに日に焼けている。梅雨明けから三日が経ったばかりだ。夜は窓を開けても眠れないほど息苦しく、圧し掛かるような暑さに埋没している。カウンターで、冷たいカフェラテを頼んでいる彼女の横顔に、耳朶へ飾られた金色のリングが束の間、青白く輝いて見えた。光の加減だろうか。謙輔は携帯を閉じて、根元まで崩れかかった指先の莨を灰皿の底へ念入りに沈めた。
「ごめんね。随分待った?」
「待ってないよ。来たばかり」
「そうかな。灰皿が待ちくたびれた顔をしてるよ」
 陽子の鋭い指摘は、悪戯っぽい口許の笑みで緩和されていた。
「汗かいちゃった。とっても蒸し暑いんだもん」
 開いた襟刳りの辺に薄らと微かに広げられた汗の被膜さえ、謙輔の瞳には優雅な光沢のように映じた。白く光る首筋と、束ねられた明るい髪の毛の描く曲線が、神々しい均衡を織り成している。謙輔は劇しい渇きを覚えて、汗ばんだアイスコーヒーの残りを喉の奥へ流し込んだ。溶けかかった氷の砕片が騒がしく未練がましい音を立てた。
 今日一日の仕事で生じた様々な問題が、二人の交わす当面の会話の主な題材となった。そもそも仕事を通じて結ばれた関係であるから、密会の前菜に業務上の愚痴や些少の自慢や滑稽な失敗談を充てるのは、申し分のない自然な措置であると言えた。既にそこから愛撫は始まっているのだとも言えるし、或いは、二人きりで過ごすことの疚しさを和らげる為の儀礼に過ぎないとも言えた。仄かな緊張、それを少しずつ解す為の簡便な準備体操。陽子は自ら注文したカフェラテを半ば持て余しているように見えた。最初から、限られた時間を薄汚い喫茶店の一角で浪費する意思は、少なくとも彼女の側には存在していないのだ。
 しかし謙輔は、物語の始まる予兆を感じるような、この一瞬の局面を密かに愛していた。一旦始まってしまえば、総てが夢のように刹那的に終わってしまうことを、彼は既に充分学んでいた。終わってしまった瞬間から、幸福な余韻の裡に、不快な砂利のように厳格な現実が混じり始めるだろう。動かしようのない規則によって組み立てられた、頑丈な鋼の現実が、幸福な余韻の欺瞞を暴くだろう。陽子が両方の掌を揃えて膝の上に並べ、饒舌を切り上げた。謙輔は静かに頷いて、彼女のグラスを自分のトレイの上に移して立ち上がった。
 煌びやかな夏の夜。梅雨は明けたが、誰かの吐息に包まれているような蒸し暑さは一向に衰えなかった。歩道を並んで進みながら、二人は他愛のない会話の続きに興じた。真夏に生まれたけれど、だからと言って夏の暑さを愛せる訳じゃないと、陽子は朗らかな口調で言った。謙輔は直ぐに彼女の誕生日が八月の終わりであることを想起した。それは何かのサインのように聞こえた。八月の酷暑の中で産声を上げた彼女は、今年で二十六歳になる。適齢期という古びた言葉が、謙輔の脳裡を、寿命の尽きかかった、老いた憐れな蛍火のように飛んで回った。彼は陽子の白くて長い指先に触れた。彼女は何も言わずに彼の指を握り返した。眼の前で、横断歩道の信号が赤から青へ都合良く切り替わった。