サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十七 「風花号」の悪戦苦闘

 純情だが余り頭の回らない部下を抱えて業務に精励するということは、数多くの艱難を抱え込むことに他ならない。無論、部下やバエットの前で己の小さな器を悟られたくないという一心から安易な感情の虚飾に走った私の浅薄な考え方が、真っ先に批判されるべき見苦しい汚点であることは承知している。だが、私の見え透いた自己満足の芝居にまんまと欺かれて感じ入るようでは、幾らなんでも一人前の男子として智慧が足りないのではないか。いや、こんな風に他人を責め立てたところで己の落ち度が帳消しになる訳でもない。結局は見栄を張って強がりを言い出した私の短慮が諸悪の根源なのだ。
 私の発言を耳にしたバエットは暫くの間、薄気味悪い沈黙を守って腕組みしたまま、甲板に視線を落としていたが、軈て態とらしく肩を竦めて溜息を吐き、落ち着いた口調で言った。
「いいでしょう。その心意気に、文句をつけようとは思いません」
 その瞬間、新たな十字鉤が貧弱な舷側の手摺を打ち砕いて、私たちの傍に落下して不愉快な音を立てて転がった。私は思わず仰天して情け無くも踏鞴を踏んでしまい、鍛え上げられた体躯の持ち主とは言い難いが、少なくとも私よりは上背があり、若さゆえの筋骨の逞しさも備えているポルジャー君の両腕に支えられて辛うじて事無きを得た。
「精々、怪我をしないように注意して下さい」
 至極冷静なバエットの言種には、私の虚勢を正しく見抜いているような感触があり、分かっているならば何故無理にでも安全な船艙へ追い込んでくれないんだという身勝手な不満が、喉首まで燃え盛るように迫り上がった。然し、小さな虚栄心を満たす為に、私は敢えて踏み止まり、何食わぬ顔でポルジャー君の親切な両腕を払い除けて背筋を杭のように伸ばした。
「ええ。分かっていますよ」
 だが、そんな強がりが通用する時間は立ち所に終焉を迎えた。雨霰と降り注ぐ頑強且つ邪悪な十字鉤は本数を増やし続け、私たちの貧弱な密航船は軈て自由な身動きを封じられ、夜半の海上へ墓標の如く縛り付けられる羽目に陥った。船体は複数の方向へ引っ張られて危うく軋みながら揺れ動き、甲板に佇む私たちの肉体を足許から劇しく衝き動かし、平衡を奪い続けた。水夫と護送員たちの手荒い罵声が海原を飛び交い、騒々しく響き合い、手斧や包丁を握り締めて殺気立った男たちが、十字鉤を結わえた麻縄を斬り落とすべく舷側へ押し寄せ、考え付く限りの悪罵の文句を吐き出しながら逞しい腕を振り回している。だが、上下に震動する甲板に立って、鋼線が編み込まれた立派な麻縄を鮮やかに切断するのは至難の業であり、彼らの血に飢えた殺意と抵抗は捗々しい成果を齎さなかった。麻縄の向こうには頑丈な巻取りの機械が控えており、打ち込んだ十字鉤を奪還しようと奮闘するかの如く、隆々たる体躯の持ち主たちが洋上の薄明の彼方で金属の把手を力一杯回しているのが見て取れた。
「畜生め。彼奴ら、大事な帆布に穴を開けやがった」
 動揺する船上でも全く慌てずに二本の脚で樹木のように踏ん張り続けるマジャール・ピント氏が、頭上にはためく縦帆を睨み据えて苦々しげに吐き捨てた。
「どうやら、フクロウの鋭い爪に押え付けられてしまったようだな」
 バエットの冷ややかな発言に、ピント氏は苛立たしげな舌打ちで報いた。
「傍観者気取りの口を叩いたところで、助かる訳じゃねえぜ」
「無論、当事者の積りさ。真っ向から勝負を仕掛けるしかないんじゃないか?」
「お前に教えてもらわなくたって、心得てるよ。彼奴ら、獲物を嬲ることに関しては筋金入りの玄人揃いだからな。命乞いしたって、馬鹿馬鹿しいだけだ」
 そうやって全く腹の足しにもならない議論を取り交わしている間にも、私たちの乗船が強いられた窮状は悪化の一途を辿り、敢えて高所の位置を狙って打ち込まれた十字鉤に食い破られた帆布の数は増えていき、最早望みの方角へ舳先を定める力さえ奪われつつあった。船は洋上の暗い一点に呪縛され、フクロウたちの逞しい力瘤の浮いた腕で十字鉤の麻縄が巻き取られる度に、不穏な震動が私たちの躰を奥底から刺し貫いた。知らぬ間に互いの舷側の距離は縮まっており、怒り狂った護送員と水夫たちはフクロウどもを罵る声の響きを更に高めていったが、相手は此方の劣勢を充分に見抜いており、悠然たる高潔な猛禽の態度を崩そうともしない。
「クラッツェル」
 不意に抑制された口調でバエットが忠実で頼もしい腹心の名前を呼んだ。隆々たる筋肉を防水用の外套に包み込んだクラッツェルは、他の護送員たちの口汚い戦列には参加せず、少し離れた場所で莨を吹かしていた。
「銛撃ちで一矢報いる積りはないか」
「結構ですが、奴らの主檣を圧し折ったところで、事態が好転するとも思えないな」
「共倒れを懸念しているという意味か」
「その通りです、小隊長」
 帆を破られた船が二隻、十字鉤を結わえた麻縄で繋がれて洋上を漂流するというのは、確かに想像するだけで寒々しい悲惨な末路であると考えられた。クラッツェルの示した危惧に、バエットは暫時の沈思黙考で応じてみせた。