サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 四十一 マロカ島の砂浜

 四日目の明け方、すっかり体力の衰えた私は瞼を開く労力さえ頑迷に惜しんで、船艙の暗がりに薄汚い砂色の毛布と共に身を横たえ、懶惰な眠りの深淵を彷徨していた。
 乏しい食糧と真水の備蓄は、公平な管理とは無縁の荒くれ者たちの手で恣意的に取り扱われており、その残量は刻々と野放図な減少の一途を辿っていた。特に彼らから見れば疫病神の穀潰しに過ぎない私たち護送小隊の一団への割り当ては極めて禁欲的な水準に留まっており、部下たちの怨嗟の声に堪えかねたバエットが高額の報酬を更に上積みしてやるから分け前を増やせと水夫たちを口説きに掛かっても、最早無事に生きてヘルガンタへ帰れるかも分からない状況に追い込まれた今となっては、単なる空手形と受け取られても止むを得ず、窮状が打開されることはなかった。貧しい食事が人々から奪い去る希望の分量は侮り難いもので、幾多の艱難を乗り越えてきた護送員たちは兎も角、蒼白い書記官の私とポルジャー君は早々に絶望の淵へ腰まで沈み込み、立ち上がることさえ億劫な日々が続いていた。
 眠りが浅くなり、それ以上眼を閉じて躰を横たえ続けることにさえ倦んでしまった私の怠惰な脳裡には、ジャルーアの記憶が次々と紙芝居のように浮かび上がり、水牛の如く肥満した商館長モラドール氏の不機嫌そうな表情を思い浮かべる度に、任務に失敗しかかっている現状への焦慮と、そもそも無謀な指令を下した商館長への憎しみと恨みが複雑に入り混じりながら氾濫した。やっぱり、初めからこんな仕事は無茶な話だったんだ、大して評価が高い訳でもない単なる書類屋と、由緒あるファルペイア州立護送団に所属しながらも荷厄介な存在として蔑まれている食み出し者の群れが手を組んで、深刻な内乱に苦しむダドリアへ弾薬を運び入れるなどという途方もない法螺話のような計画が、順調に成し遂げられる見込みなんて皆無なのだ。そういう類の愚痴が喉首まで嗚咽のように迫り上がり、煮え滾る不満と呪詛を理性の力で抑え込むことは非常に困難であった。
 軈て噴き上がってくる商会の幹部たちへの怒りに睡魔は完全に追い払われ、興奮で熱くなり汗ばみ始めた躰を持て余すように輾転反側を重ねていると、俄かに甲板の方が騒がしくなってきた。荒々しく動顛した靴音が天井裏から遽しく列なって聞こえて来る。
 誘い出されるように擦り切れて毛羽立った暗い砂色の毛布を蹴飛ばし、私は喉の渇きを覚えながら立ち上がって、脱ぎ捨てていた革靴の紐を丁寧に結び直した。船艙では他にも多くの護送小隊の仲間たちが眠り込んでいたが、豪胆な彼らは甲板から漏れてくる騒がしい物音に惑わされることなく、夢魔の蔓延する世界へ没したまま、寝返りすら打たずに高鼾を奏でていた。
 廊下へ出た途端、船首の方面に設けられた船長室の扉が蝶番を軋ませながら押し開かれる瞬間に私は遭遇した。狐色の頭巾を目深に頭部へ纏いつかせた隠避船の主人マジャール・ピント氏が、久々に衆目の前へ登場したのだ。彼は相変わらず不機嫌そうな態度を隠そうともせず、眼帯で覆われていない右眼に鋭利な刃物を想わせる炯々たる光を鏤めながら、堂々たる足取りで甲板へ通じる階段へ歩いて行った。その逞しい背中、如何にも「悪漢」という形容が相応しい居丈高な後ろ姿を見送りながら、私は閉塞の極みに置かれていた状況が大きく変貌しつつあることを直感的に悟った。
「陸地が見えるぞお!」
 引き摺られるようにピント氏の背中を追って甲板へ通じる階段を昇り切ったところに、望楼へ攀じ登って哨戒の任に当たっていた水夫の興奮した叫び声が覆い被さってきた。群青から紺青へ、紺青から浅葱へと移り変わっていく広大な夜明けの空へ、朝焼けの光が金粉を撒いたように煌々と滲み、私たちの貧弱な風花号を東方から照らしていた。南へ向いた舳先の最果てに、確かにぼんやりと消炭の色を湛えた陸地の輪郭が浮かび上がって、堂々と身を横たえているのが見えた。次から次へと船艙の深淵から跳ね起きた男たちが数珠の如く列なって姿を現し、漸く視界に映じた紛れもない希望の実体に焦がれるような熱い眼差しを注ぎ掛ける。その瞬間に限って言えば、ヤミツバメの水夫たちと、私たちコスター商会の護送団との間には如何なる懸隔もなく、遂に勝ち得た巨大な幸福の目映い輝きに総身を貫かれて、誰もが瞳を潤ませ、乾上がった喉を顫えさせていた。
「島か」
 私の立ち竦んでいる場所から然程離れていないところで、背筋を伸ばしたマジャール・ピント氏が努めて平静を装った人工的な声色で、静かに呟くのが聞こえた。その口調は無味乾燥なほどに平板な響きに縁取られていたが、抑え付けられた興奮が今にも足枷を引き千切って飛び出しかけていることは明瞭であった。
「朝日が昇り切る前に、あの島へ船を着けろ。誰が待ち構えていようと構わねえ。一刻も早く、陸地へ纜を投げるんだ」
 ピント氏の荘厳な号令に呼応して、甲板に鈴生りになった水夫たちは、櫂を握り締めて夢中で海流を泳ぎ渡る為に、奔馬の如く我先にと走り出した。