サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十 苦学生エレファン・ポルジャー君の肖像

 猛獣ベルトリナスとの劇しい格闘の一件以来、船路は頗る穏やかな、落ち着いた日々によって彩られた。船という洋上の密閉された空間で来る日も来る日も寝食を共にしていると、最初は険しかった新米監督官と荒事に慣れ親しんだ護送小隊の面々との間の隔壁も不思議と柔らかく解れていくもので、国境に程近い港町ヘルガンタへ辿り着く頃には随分と打ち解けることに成功していた。最初から表面的な穏和さを絶やさずに接してくれていた小隊長のバエットは固より、銛撃ち名人のクラッツェルや頑迷な炊事番のフォートラスとも、徐々に心理的な距離は縮まりつつあった。
 ヘルガンタの港の灯が夕映えの錦繍海峡の彼方へちらちらと瞬き始めた頃、私は商会から宛がわれた唯一の身内である新米商館員エレファン・ポルジャー君と共に、冷たい潮風の吹き荒れる甲板へ立って、終わりに近付きつつある船旅への一抹の名残惜しさを分かち合っていた。春先に商館へ雇い入れられたばかりのポルジャーは無論のこと、ずっと机に齧りついて事務的な仕事に明け暮れる無味乾燥な日々を過ごしていた私にとっても、錦繍海峡を辿っていくだけの長閑な航海であったにも拘らず、洋上で過ごした十日余りの貴重な時間は、晩年の想い出として振り返るのに充分なほどの鮮烈な印象を齎していた。
 ビアムルテ州の南端に位置し、波の荒れることも少ない内海に面したヘルガンタには、我々コスター商会と御同業の人々が数多く働いている。一番の大手はハイジェリー商会で、彼の地の州都バラダビアに巨大な白亜の殿堂めいた本店を構えており、隣国ダドリアや南方のラカテリア亜大陸への海外貿易に熱心で、軍需産業に関しても複数の大口の取引先を抱えていた。叛乱と暴動に動揺する危険な異国ダドリアへ踏み込むに当たって、そのハイジェリー商会の豊富な経験と人脈に助力を願い出るのは、軍需物資の輸送に不慣れなコスター商会の末席に連なる新参者の監督官にとって、最も合理的且つ賢明な判断であると思われた。
「君は学校で通関業務の勉強もしたのかい」
 潮風に全身を隈なく嬲られ、頬を冷たく痛めつけられながらも、湧き起こる到着の甘美な感慨に酔い痴れることに夢中で、暖かな船室へ引き返すことも忘れたまま、私は先輩らしい幾許の尊大さを含んだ態度で、傍らに立つポルジャー君に訊ねてみた。別段、本気の関心があって訊いてみた訳ではなく、単なる漠然とした思いつきに過ぎなかったのだが、謹厳実直な性格のポルジャーはそれほど親しい訳でもない上司の唐突な御下問に、威儀を正してはっきりとした口調で答えた。
「はい、監督官。私は商務学校の第三学年に在籍中、海外貿易の実務に関しても勉強しました」
「そうか、それは頼もしい限りだな」
 自分で口火を切っておきながら身勝手な話だが、ポルジャー君の回答は実に平板で分かり切ったもので、商務学校に通いながら海外貿易の実務に関して何の講義も受けずに済ました生徒など存在する筈もなかった。商務学校の修業年限は地域によって異なるが、概ね三年から五年が目安であり、私のように地主の父親(無論、所有している傾いた耕地の値段は二束三文にも等しいのだが)と裕福な実業家の伯父を持つ恵まれた学生ならば、そう将来を急がずとも生活の基盤は保証されている訳で、五年間も鈍重な水牛のように学校へ通い続けても何ら問題はないが、貧しい苦学生は三年であらゆる知識を限られた脳味噌の中にぎゅうぎゅうに詰め込み、一刻も早く月給の取れる見習い商館員へ転身しようと焦るものだ。ポルジャー君はそういう哀れな苦学生に分類されるべき人種で、ユジェットの路地裏で小さな靴屋を営んでいた父親を肺病で早くに亡くした結果、学費の工面にも度々難渋するほろ苦い青春時代を過ごしたのであった。固より商館員を志す人間というのは多かれ少なかれ金銭への執着乃至欲求が大きいものと相場が決まっている。栄達して大金を稗のように容易く掴み取り、湯水の如く浪費し得るほどの資産を築いて、世間に対してはそれなりに幅を利かせたいと思う野心家が、私たちの業界には掃いて捨てるほど多く蠢いている。金持ちの子弟が親の七光りに恥も外聞も弁えずに便乗し、名の通った大手の商会へ入り込んで阿諛追従に時を費やし、場合によっては幹部への付け届けなども積極的に展開して、能力に見合わぬほどの厚遇を得るという忌々しい事例も実際に存在するらしい。私のような人畜無害の小物でさえ、成功した商会の経営者であるトラダック伯父さんの威光に縋りついて現在の地位に滑り込んだのだと陰口を叩かれることがあるくらい(現在の地位? 下っ端の書記官という窮屈な御身分の何が羨ましいのだろうか?)、私たちの暮らす世知辛い世界には嫉妬と羨望が濁った下水のように渦巻いているものなのだ。
 その点、ポルジャー君は清々しいほどに実直で、間違っても巧言令色を駆使する利己的な才人などではない。故郷の傾いた下宿で暮らす後家の母親の慎ましい暮らしを支えるべく、様々な雑役を熟して日当を貰いながら商務学校へ三年間通い、その地道で堅実な努力が認められて、コスター商会へ初等書記官として雇用されたという古き良き美談の主人公なのである。
「三年間で海外貿易まで学ぶなんてのは、努力家の証拠だよ。御母さんも喜んでおられるだろう」
 鷹揚な人格者の先輩を演じて、偉そうに話しかけた私の鼻柱を圧し折るように、相変わらずの謹厳実直な姿勢を貫いたまま、ポルジャー君は堂々と返答した。
「はい、監督官。御蔭様で、商務学校在学中に通関士の免状を取得しました」
「何だって?」
「はい、監督官。通関士の免状です」
 思わず間抜けに開きかけた大口を、唇を強く咬むことで何とか抑え込んだ私は、適切な相槌も打てないままに、群青色と紫色の合間で滲みながら沈んでいく西日へ視線を移した。日頃の不器用で機転の利かない仕事振りを見る限り、こいつは確実に俺よりもこの稼業には向いていないと思い込んでいただけに、通関士の免状を取得済みという意外な告白は、私の脳天を打ち砕くのに充分過ぎるほどの威力を発揮した。海外貿易に際し、積荷の申告や関税の計算など、細々とした手続きの一切合財を処理する通関士の資格は、国境を飛び越えて活躍する腕利きの書記官にとっては華々しい才能と栄誉の証である。皇国商務省の出題する難解極まりない試験を突破した者だけに授けられるその勲章は、私のように生温い五年間の寄宿生活を送っただけの怠惰な学生には決して掴み取ることの出来ない、北極星のように崇高で重要な肩書であった。