サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十二 辺境に住まう州侯家の思惑

 丁寧に撫でつけられ、櫛を入れられた白髪は綿毛のように軽やかな光沢を放ち、消し炭のように色褪せた口髭にも行き届いた手入れの痕跡が残っていた。創業百年を迎える大店の商会で、支店長の重責を任される人物に相応しい貫禄と威厳だと称するべきだろう。堂々たる、悠揚迫らざる物腰で革張りの椅子に深々と腰掛けたハイジェリー商会ヘルガンタ商館長のシュノバ・ラクヴェル氏は、居住まいを正して向かい合った私たちの顔を静かに見凝め、勿体振った調子で葉巻を勧めた。
「御話は伺っておりますよ。先日、御宅の商館長殿から、熱心な封書が一通舞い込みましてね」
 そう言って抽斗から取り出した封書の文面には確かに、我がコスター商会の印章が捺されていた。差出人の名義はユルゴー・モラドール、紛れもなく私の敬愛する水牛のような上役の名前である。一方的に社命を下し、屈強なツバメと右も左も分からぬ新米の商館員を括りつけて見渡す限り艱難だらけの曠野へ無遠慮に抛り出されたものだと思い込んでいたが、最低限の根回しくらいは取り計らっておいてくれたらしい。無論、今回の業務の発注元は他ならぬソタルミア州侯家の御大であるのだから、万が一にも失敗することのないように準備を怠らないのはモラドール氏に課せられた責務と考えるべきだろう。だから私は殊更に感謝する訳でもなく、密かな安堵の溜息を漏らすだけに留めて、如何にも老獪な印象のラクヴェル氏の彫りの深い面貌を見返した。
「全く天晴な志と申すべきでしょう。我が国の重要な同盟国であるダドリアの窮状は、見るも無残な有様だ。国境に隔てられているとはいえ、隣人には隣人に相応しい義務というものがある。追い詰められた摂政殿下の為に武器弾薬を誂えるのも、重要な手助けということになるでしょうな」
 葉巻の尖端を赤々と燻らせながら、ラクヴェル氏はゆっくりと間延びした口調で話し、その一語一語に対する私たちの反応を緻密に確かめるように鋭利な眼光を保ち続けた。値踏みされているのだろうか。私はその無作法な眼差しに幾許の苛立ちを覚えたが、此方は便宜を図ってもらえるように懇請する立場であるから、表立って強気な発言に踏み切ることは控えねばならない。幸い、同席するポルジャー君は目上の人間が纏っている社会的な威光というものに滅法弱い質であるから、若さゆえの旺盛な血気を以て、先輩の制止にも頷かず無礼千万な抗弁を試みるような蛮勇は、意識の片隅を掠めることすらない様子であった。
「私は返信を投じました。今頃、御宅の商館長殿は蒼褪めておられるかもしれませんな。我々には、ソタルミア州侯家とコスター商会の輝ける情熱に協力する意思は毛頭ないと、そうはっきり書きつけておきましたから」
「何ですって」
 そのとき、思わず素っ頓狂な嘆声を漏らしてしまった私の顔面は、遠く離れたジャルーア商館の執務室に鎮座するモラドール氏の数倍も明瞭に蒼褪めていたに違いない。唖然として相手の顔を凝視する私の無防備なまでの驚愕振りに、老練なラクヴェル氏は口の端を歪めて如何にも面白くて堪らないという風に声を立てた。ポルジャー君は私以上にこの意想外の返答に度肝を抜かれたらしく、僅かに膝頭を顫わしていた。全く頼りにならない敵娼だ。だが実際には、新人の動顛を内心で嘲弄する私自身、どうやら自分の手には負えそうもない事態の展開に魂を竦ませて、叫び出したくなる気持ちを抑え込むだけで手一杯という有様であった。
「そんなに動揺されては、私の方にも罪悪感というものが生まれてしまう。先ずは落ち着きましょうや。ピアレン、熱い珈琲を御客様に差し上げろ」
「はい、畏まりました」
 ピアレンと呼ばれた妙齢の女の秘書は恭しく優美な動作で隣室へ消え、直ぐに湯気の沸き立つ珈琲を携えて戻ってきた。御丁寧に牛乳と砂糖まで添えられている。
「何故、そのようなことを仰るのですか、商館長」
 どうやって切り返せばいいのか分からぬまま、それでも黙り込んで引き下がる訳にはいかないと口を開いた私の顔を、商館長は錐を揉み込むような鋭さで圧迫するように覗き込んだ。
「余所者に嘴を突き入れられる筋合いはない、ということですよ、ルヘランさん。貴方だって御同業なのだから、縄張りを荒らされるのが気分の好いものではないことくらい、御分かりではないのですか」
 厭味ったらしい口調で言い募る商館長の形相は、先刻までの穏やかな仮面を脱ぎ捨てていて、そこには能天気な客人への露骨な軽侮と蔑視が露わになっていた。
「いいですか、ルヘランさん。ダドリアの内乱が勃発して以来、このビアムルテ州は様々な艱難を強いられてきました。夥しい数の素行の悪い難民が国境の垣根を乗り越えて、陸からも海からも雪崩れ込んでくる。それだけで、この地の治安がどれほど深刻に損なわれたことか、対岸の火事だと思い込んでいる方々には分からないでしょうな。本来なら故郷へ叩き返してやりたいところだが、皇府の御偉方はダドリアとの宥和を最優先の方針に掲げておられる。難民を虐げたとなれば、今後の外交関係にも支障を来す。唯でさえ蜂の巣のような有様のダドリアと、要らぬ諍いの種を増やしたくないのは分かります。ですから歯を食い縛り、堪え難きを堪えて難民の受け容れと生活の支援にあらゆる州民が躍起になっている。この涙ぐましい努力の見返りとして、摂政派の連中は我々から軍備を調達している。いいですか、ルヘランさん。我々は彼らと独占的に取引をしているんです。余所者に譲ってやれるような分け前は何処にもないんですよ」
 一気に捲し立てる能弁な商館長の気魄に押し込まれ、何も言い返せずに唇を咬み締めた私の背後から、伸びやかで通りの良い声音が響き渡り、ラクヴェル氏の噴き上げるような気焔に冷や水を浴びせ掛けた。
「それはヴェンドラ卿の御意向という風に理解して宜しいのかな」
 不意に壁際から進み出て、私たちの遣り取りに割り込んだバエットの相貌は、普段とは比較にならぬ峻険な敵意に鎧われていた。
「ダドリアへの支援は、皇府も含めたフェレーン皇国全体の方針である筈だ。ヴェンドラ卿の双肩に総てを負わせると、皇室が公式に定めて御布令(おふれ)を出した訳ではあるまい?」
 無礼も何も構わずに尖り切った口調で迫ってきたバエットの逞しい肉体を、ラクヴェル氏は極めて冷ややかに見返して言った。
「護送員風情が口を挟むな。ヴェンドラ州侯家は、お前たちの動向を片時も休まず見張っている。逆らって無事で済むとでも思うのか」