サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 三十 黄昏の密会

 昼間訪れたときとは百八十度異なり、花街の場末に溝鼠のように息を潜めていた海猫亭の軒先には、鮮やかな燈光が閃いていた。中へ入ると、狭苦しい店内には肩を寄せ合って男たちが鈴生りに並び、縁の欠けた器で芳醇な醸造酒や火傷しそうな蒸留酒を次々と呷り、高らかな歌声や粗野な喋り声を野放図に響き渡らせている。昼間の無愛想な店主の他にも、若い男女の店員が調理や給仕へ駆けずり回り、特に女給たちは愛想のいい猫撫で声を巧みに駆使して常連を虜にしようと余念がない。無論、それでも場末の呑み屋であることに変わりはなく、飲み食いする客の顔触れも女給の美貌も断じて上質とは言い難い水準であった。
 固より尚武の気風で知られるヴェンドラ州侯家の御膝元である以上は、ジャルーアの娼館や酒場に見られるような洒落た雰囲気を、花街の片隅の潰れかかった呑み屋へ求めるのは最初から無理な相談であると言えた。由緒正しき名流ソタルミア家の足許に花開いた優雅な文化、異郷の情緒と古びた商館倉庫の苔生した外観が混じり合い、独特の風情を形作っているジャルーアの風景や、東方の山岳地帯で採掘され精錬される豊富な金属類を、長年に亘って培われた優秀な技術を持つ工匠たちが熱心に細工することで生み出されたユジェットの厳めしく典雅な街並に比べれば、ヘルガンタには辺境の僻地に築かれた軍事的な要塞という荒っぽい野蛮な出自の片鱗が覆い難く染みついていた。テレス・フェリンカの王城を進発した勇猛果敢なフェレーンの官軍が、道なき道を踏破し、際限のない寂寞たる曠野を乗り越えて突き進み、立ち開かる異族の戦士を次々に屠ることで切り拓かれた過去の残像が、未だに街路の其処彼処へ消え残っているような気さえした。防衛用の土塁、兵站、前線基地として最初の礎石が硬い大地に打ち込まれた後に、長大な歴史の変転に洗われながら、徐々に人間の暮らす繁華な都市としての体裁を整えてきた後発のヘルガンタに、ソタルミア家の所領のような洗練と成熟を求めるのは過分な期待に他ならないのだ。
 昼間、言葉を交わした髭面の店主は、下品な色調の燈光が飛び交う店内の喧噪と混乱にも遮られることなく、直ぐに私たちの訪問に気付いて目顔で傍へ寄るように促してきた。銜えているのは相変わらず紙巻の安莨で、周囲の酔っ払いたちが豪快に奏でる卑猥な冗談と気の利いた毒舌の犇めき合いに紛らわすように声を低めて囁いた。
「上へ行こう。いつ何時、官憲の手先が潜り込むか知れたもんじゃねえからな」
 汚れた前掛けの紐を解いて帳場の足許に詰め込まれた雑然たる物入れの葛籠(つづら)に抛り込むと、髭面の男は他の料理人に耳打ちして私たちを便所の脇の階段へ案内した。踏み締める度に耳障りな物音を立てて軋む古びた階段の先は、獣脂の臭いを漂わせる煤けた洋燈(ランプ)がか細い光を漏らしているだけで視界が酷く悪かった。床の羽目板も私たちの歩行に応じて不細工な悲鳴を奏で、黴臭い一室へ入って促されるままに背凭れの罅割れた椅子へ腰掛けると、髭面の店主は後ろ手に扉の錠前を下ろした。
「未だ名乗ってなかったな」
 男は卓子に置かれた無骨な石の灰皿を手許に手繰り寄せ、大袈裟な溜息と共に新しい紙巻き莨へ火を点けた。野犬が吼えるような調子で吸い込んだ煙を乱暴に吐き散らかすと、改めて私たちの顔を鋭く睨み据えた。
「俺の名はメージェン。メージェン・アルガフェラだ。何代も前から、このおんぼろの呑み屋を根城に隠避船の斡旋を請け負っている」
「コスター商会の書記官パドマ・ルヘランと申します」
 一応は監督官の威厳を保っておこうとバエットより先に口を開いて挨拶を交わしながら、私は自分の置かれている境遇が愈々世間の日陰へ近付き、沈み込みつつある事実を眩暈のような感覚と共に理解した。隠避船というものの存在は知識としては弁えていたが、実際に自分自身が関わり合いになる日が訪れるとは一度も想像したことすらなかった。何しろ隠避船は残虐で凄まじく素行の悪い破落戸どもが世間の路地裏を生き延びていく為に手を染める類の稼業だと相場が決まっており、曲がりなりにもジャルーアの海辺に立派な商館の建物を構えるコスター商会の一員である限りは、そんな剣呑な連中と何らかの取引を持つようなことはあるまいと高を括って生きてきたのだ。実際、今回のような特注の密命を賜らない限り、コスター商会の冴えない三等書記官がヘルガンタの密航屋と言葉を交わす機会は永劫に訪れなかったに違いない。
「なかなか立派な苗字を御持ちだな」
 厭味なのか純粋な感想なのか見定め難い口振りでバエットが言うと、メージェンは野太い眉毛を片方だけ持ち上げて不機嫌そうに紫煙を吐き出した。
「俺の家は元々ヘルガンタの名のある地主だったのさ。少なくとも三百年くらい前までは、肩で風を切って歩くような富豪の家柄だった。テレス・フェリンカの御偉方に、累代の資産を根こそぎ没収されたのが運の尽きよお」
「ビアール人か」
「今じゃ混血の極みさ。単なる雑種の野良犬ってとこだな」
 ビアール人というのは、ダドリアの極東からビアムルテ州にかけての地域に古くから居住する人々で、生粋のファンカス人にとっては先住民という呼称が相応しいような関係である。ファンカス人の勇猛な戦士たちが当地を侵略し、大昔は将軍として宮廷に出仕し、王家の詔勅に基づいて数多の戦場を疾駆する立場にあったヴェンドラ州侯家が、ビアムルテ州の政治的な頂上に君臨するようになって以来、彼らビアール人の社会的地位は豪雨に蝕まれた峻険な崖のように転落と瓦解の一途を辿り続けてきたのであった。