「ツバメたちの黄昏」 二十八 「ヤミツバメ」の穴倉
今になって思い返せば、海猫亭での一幕が、私にとっては初めて「ヤミツバメ」と称される人々の存在に触れた記念すべき瞬間であったということになる。無論、国法から逸脱して海原を秘密裡に横切ろうと試みる一種の悪党たち(それが極端に強調された表現であることは確かだが、とりあえずは「悪党たち」と呼んでおいても差し支えないだろう)の存在に関して、曲がりなりにも長い間、商館員の端くれとして乏しい俸禄を食んできた私が全くの無知であったと言えば嘘になる。海原は常に広大であり、それは異なる世界、異なる家郷に暮らす者たちが複雑に混じり合い相剋を重ねる特殊な領域で、当然のことながら皇都の廷臣たちは、その不合理な領域にもフェレノの紋章が放つ極彩色の王化の光は降り注ぐべきだと頑迷に信じ込んでおり、領海を行き交う夥しい数の船舶の素性や行き先が把握出来ないことには驚くべき憤激を以て対処するのが常であった。
隠避船というのは文字通り、そうした国家の監督や規制を免かれて秘密裡に海域を往来する為のもので、往々にして漁船や商船に扮装し、官憲の眼を欺き紛らわす為の様々な技法に長じている。とはいえ、真っ当な商館員ならば事が露顕したときに凄まじい懲罰を科せられることが確実視される不埒な隠避船の連中と、どんな些細な取引であっても行おうとはしないのが普通であり、後ろ暗い密航屋との断交は、商館員の業界における一般的で賢明な道徳であると看做されている。大体、密航屋などと手を結んで積荷を運ばねばならないのは禁制の品物であると相場が決まっている訳で、例えば御上品なフェレーン皇国の法律は表向き奴隷の使役と売買を禁じているが、実際にはそれに近い状態で労働を強いられている者、何の留保も但し書きも付さずに端的に「奴隷である」と言明し得る者も存在していて、彼らの精神と肉体を売買する不逞の輩は根絶された例がない。大事な商品である彼らの輸送に手を貸す堅気の商会は何処にもいないから、世間の暗がりに巣穴を築いて堅気の手に負えない仕事を請け負って糊口を凌いでいる連中、いわば破落戸(ごろつき)や無頼漢の類が、そうした隠避船の主要な顧客であると同時に経営者でもあるということになる。
「ソタルミア州侯家がダドリアの騒乱に興味を示しているという噂は、前々から聞いてるさ」
サルガタール卿が実質的にソタルミア州侯家の支配下に置かれているという、その政治的な絡繰に通暁しているのは、男が世間の表舞台を常に薄暗い水底から見透かしているヤミツバメの一員であることの、有力な証左であると思われた。無論その程度の知識は、カディタニアからスファーナレア辺りに長く暮らしている人間なら誰でも心得ているものだが、ジャルーアからもユジェットからも遠く隔たった国境の街ヘルガンタの場末の酒場では、決して初歩的な常識であるとは言えない。
「だが、積荷は何だね」
「弾薬だ。運べるか」
敢えて何でもないことのように表情を変えずに訊ねるバエットの奇妙な沈着さに、再び安物の紙巻を銜えた男は大袈裟な苦笑いを示してみせた。
「運べるか、とは畏れ入るね。運べないものはねえさ。だが、どれくらいの量なんだ」
「大した量じゃないさ。ヴェンドラ卿とハイジェリー商会の連中が運び込んでいる量に比べれば、子供のおやつみたいなもんだろう」
「あんたらみたいな客は初耳じゃねえ。ソタルミア卿は人海戦術を選んだようだな」
「俺たちが一番乗りではないということかい」
バエットの瞳に暗い光が宿り、店主は短く燃え縮んだ莨をもう一度、背後の流し場へ抛った。確か以前にバエットの口から聞いた話では、今回ソタルミア卿から直々に発せられたダドリアへの弾薬輸送計画は、コスター商会だけに命じられた任務ではなく、ファルペイア州立護送団の嫌われ者が集まる五十六番小隊だけが請け負った業務でもないとのことであった。それも至極当然と言えば当然の話で、唯でさえ劇しい政治的混乱と社会的動揺の渦中に置かれているダドリアへは、入国するだけでも命辛々といった表現が相応しい状況なのだから、大事な弾薬の輸送を実施するに際して、実働部隊を私たちに限るのは如何にも覇気のない博打であろう。成る可く弾数を増やして成功の確率を上げたいと考えるのは、受胎の為に夥しい数の精子が女の股座へ放たれるのと理論的には同型の試みである。だが、自らの名誉を挽回すべく今回の任務に熱意を燃やしているバエットとしては、五十六番小隊が真っ先に成功の果実を稔らせなければ無意味であると考えているのであろう。総ての護送小隊が、このうらぶれた密航屋の戸を叩きに訪れるとは思えないが、ハイジェリー商会のラクヴェル氏の腹立たしいほど権柄で強硬な拒絶の姿勢を鑑みれば、他の小隊の面々も私たち同様、ヘルガンタ税関総局の受付で屈辱的な門前払いを喰わされているに違いないのだ。
「他の客の秘密は守る。たとえそいつらが、あんたたちの親密な御同輩だとしてもだ」
店主はぶっきらぼうな口調でバエットの質問を払い除けると、壁に掛かった古臭い振り子時計の文字盤へ視線を走らせた。
「ヤミツバメどもは夜行性の連中だ。この時間はどいつもこいつも泥のように眠り呆けていやがる。日暮れを過ぎたら、もう一度顔を出せ。こういうのは、当事者同士で肚の底を探り合って契約を取り交わすのが一番いい」