サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十七 不埒なる隠避船の伝統

「ダドリアの状況を知らねえ訳じゃあるめえ」
 如何にも突慳貪な口調でバエットの顔を睨み据えながら、男は流し場の縁に凭れて皺の寄った紙巻の莨へ火を点けた。その眉間は深い憂愁を感じさせる皺が幾重にも刻まれ、濫れ出る紫煙に抗うように顰めっ面は、彼が堅気の人間ではないことを暗黙裡に証しているように見えた。
「あそこは血で血を洗う刃傷沙汰が絶えねえ有様だ。いいか、隠避船(いんぴせん)を仕立てるのは結構だが、それなりの代価は払ってもらわなくちゃなんねえ」
「安心したまえ。我々にはスファーナレアの長者様がついておられる」
「スファーナレアの長者様だと?」
 それまで明らかに此方の素性を怪しみ、胡散臭そうに蔑んでいた男の顔色が俄かに豹変したのは偏に、スファーナレアの長者様の輝ける御威光の恩恵に他ならなかった。ソタルミア州侯家は、皇都テレス・フェリンカに住まう万民の主君フェレノ王家の血筋に連なる数多の家門の中でも、取り分け高貴な地位を占める名流中の名流である。建国の梟雄たる太祖アルカーダスの実弟で、十六人の兄弟姉妹を抱えていたアルカーダスにとっては最も優れた腹心であったイルムファデスが、現在のソタルミア州侯家の開祖であり、錦繍海峡を経由して行なわれる旺盛な貿易の拠点であるスファーナレア州の州都ジャルーアに置かれた屋敷は、そこから北方へ五百余里も離れたカディタニア州の州都ポルヴェーラにまで睨みを利かせていた。皇国の版図が現在の行政単位によって仕分けられる以前は、偉大なる忠臣イルムファデスの末裔たちが、王室の特別の詔勅に基づいて、ジャルーアの面するスファーノ湾から、ファルペイアの峻険な山岳を乗り越えた先の平野部に広がる肥沃なカディアン草原までを一手に取り仕切り、巨大な権勢を恣にしていたのだ。無論、州府制が導入されて久しい現代においては、五百里以上もの縦長の土地を一つの州侯家に束ねさせるのは法外で非常識な措置であると考えられており、一歩間違えば王室への叛逆を招きかねない為に一つの州府の面積や州軍の規模には厳格な制限が加えられている。然し、ソタルミア州侯家の培ってきた強大な権威は、州府制を導入して王室への集権を推し進めることに腐心した皇帝コレカドスの方針に素直に隷属しようとはしなかった。あらゆる手管を弄し、皇国の開闢以来保ち続けてきた崇高な地位を守り抜く為に、ソタルミア州侯家は分家という戦術を新たに繰り出した。州侯家とは比較するのも畏れ多い地元の権門を適当に選び抜き、一族の姫君を降嫁させて緊密な縁戚関係を築き上げる。フェレーンに限らず、何処の国でも地域でも古くから繰り返し営んできた政略結婚の手法を大胆に取り入れてみせたのである。イルムファデス直系のソタルミア州侯家がスファーナレア州を統治し、バステン州侯家がロヴァーミア州を、サルガタール州侯家がファルペイア州を、パラシクサ州侯家がカディタニア州を銘々で分け合い、表向きはソタルミア卿の莫大な権力が分散したという体裁を取り繕った訳だ。「ソタルミアの長者様」という呼び名には、ソタルミア卿がバステン卿、サルガタール卿、パラシクサ卿を統率する強大な権力者であることへの冷静な認識が織り込まれているのである。
 スファーナレアの長者様から、ロヴァーミアを隔てたファルペイアの州立護送団に重大な御下命が降り注いだ理由にも、ソタルミア卿にとっては三百里以上離れたサーカンタスでさえ煎じ詰めれば「自家の庭園」であるという歴史的な事実が深く関与したことは言うまでもない。固よりファルペイア州は、私の生まれ育ったトレダ村に限らず、その領土の大半が高地若しくは山岳で、古来屈強な健脚の狩人を数多く輩出してきた土地柄であり、ソタルミア卿の公式な所領がスファーナレアのみに縮減される以前は、専らファルペイア出身の筋骨逞しい男たちがジャルーアの近衛を務めたものであった。ファルペイア州立護送団の華々しい名声も、その濫觴はソタルミア州侯家の近衛兵団に存する訳で、これらの歴史的な経緯を考え合わせれば、ソタルミア卿の厳しい相馬眼がファルペイア州立護送団へ向けられたのも全く奇異な事態ではないのである。
「スファーナレアの長者様の家来が、密航屋の帳場で隠避船を雇い入れるなんて前代未聞だぜ、おい」
 無遠慮に値踏みする男の眼差しを総身に堂々と浴びながら、バエットは敢えて迂遠な物言いを貫くことで、相手の関心を惹き寄せることに努めた。
「ヴェンドラ卿は、スファーナレアの長者様の家来がダドリアへ旅立っていくのを快く思っておられない。理由は見当がつくだろう?」
「面倒な袋小路へ嵌まり込んじまったって訳かい」
「そういうことさ。隠避船でも雇わなけりゃ、このままヘルガンタで永遠に足留めだ。ジャルーアへ引き返したところで、ソタルミア卿の御機嫌が麗しくなる見込みもない」
「そりゃあ、間違いねえな」
 先刻までの厳めしい仏頂面を不意に解きほぐして、男は銜えた莨火を流し場の排水口へ抛り込んだ。
「旨みのある取引だと信じていいんだな? 何か証明はねえのか」
「あるさ。此れを見ろ」
 そう言ってバエットは袖を捲り上げ、隆々たる左の二の腕を剥き出しにした。瘤のように盛り上がった筋肉の頂に浮き上がるように、梟と大樹を象ったサルガタール州侯家の紋章の刺青が燦然と輝いて見えた。