サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 四十五 革命家の横顔

 その女の名前は、クエルザ・パトノスといった。その名前を聞いただけで、私たちは彼女が典型的なフェレーン皇国の臣民とは異質な素性の所有者であることを直ちに察知した。パトノスという苗字は、ダドリアの西部地方では頻繁に見聞きする名前だが、フェレーンの版図では滅多に耳にすることがないものだと、クラム・バエットは明確に断言した。
「そう。浜辺には、隠避船の悪党どもの頭目が待っているという訳ね。呼びに行かなくていいのかしら」
「彼を呼び出すと、きっと話が錯綜してしまうでしょう。その前に先ず、御互いに冷静な状態で、意見の交換に努めるべきではないでしょうか」
「ふん。口の達者な人ね。まあ、反対する理由はないけれど」
 クエルザ・パトノスの暮らす粗末な小屋は、薄汚れた無骨な外見とは裏腹に、住み心地の良い、上品で快適な清潔さを維持していた。彼女が丁寧に磨き上げられた玻璃の杯に注いでくれた清らかな湧水は、慢性的な飢渇に苛まれ続けてきた私たちの口腔を甘く潤した。
「何が目当てで、こんな離れ小島に流れ着いたのかしら」
 淡白な口調で言い放つクエルザの眼差しは、絶えず油断を拒むような鋭さを保っていて、その風合いは丹念に磨き抜かれ油を引かれた流麗な刀身を想起させた。
「決してこの島が目当てという訳ではなかった。それは素直に信じてもらいたいですね。貴女の素性は知らないし、それを知った上での悪企みで、この辺鄙な離島の砂浜を踏み締めた訳じゃない」
 バエットはクエルザの色褪せた亜麻色の頭髪を、その解れたような毛先を静かに見凝めて、一つ一つの言葉を丁寧に慎重に削り出した。
「此処はマロカ島。無人島という建前には、一応なってるわ。尤も、この辺りの島々はどれも、得体の知れない連中の巣作りには恰好の土地ばかりだけれどね」
「貴女は此処に長く暮らしているのですか」
「長く暮らすような人間がいる環境に見えるのかしら」
「少なくとも清らかな甘露のような真水は湧いている。日当たりも抜群だ」
「まあね。太陽と真水は、この島では無料で幾らでも手に入るのよ。それだけが取り柄と言えるわね」
 気怠い口調で言い捨てて、目映い外光の射し入る窓辺に視線を転じた彼女の横顔には、はっとするような艶やかな美しさが高価なインクのように滲んでいた。私は黙ってバエットと彼女の巧みな肚の探り合いを眺めているだけの役立たずであったが、その瞬間に、この女は信頼に値するのではないかという何の根拠も持たない感想に、半ば強制的に囚われてしまった。実際、そこには如何なる明確な理由もなく、俄かに迫り上がってきた情緒的な直感を正当化する為の方法は何一つ思い浮かばなかった。
「累代の原住民という訳ではないのならば」
 バエットは涼やかな瞳を煌かせて、意地悪な角度に唇の輪郭を捻じ曲げて微笑んだ。
「止むを得ない悲劇的な理由に、狐のように狩り立てられたということですか」
「随分と詩的な物言いをするじゃない。顔立ちに似合わないわ」
「顔立ちに似合うかどうかは、詩人を志す理由には関わりを持たないでしょう」
「言葉の遊びを重ねていられるほど、悠長な御身分なのかしら」
「貴女の素性を教えてくれませんか」
「訊いてどうするの」
「助けてもらえる相手なのかどうか、その手懸りを欲している訳です」
 クエルザは凛とした、崇高な輝きすら感じさせる瑠璃色の虹彩を外光に照らされながら、ゆっくりと呼吸を整えるように暫時の沈黙を選んだ。
「貴方は、隠避船の悪党どもと何故、手を組んでいるの」
「それを先に言わなければ何も教えたくないという考えですか」
「何か不都合でもあるの」
「いいえ。我々は、ダドリアの王党派を支援する為に派遣された、護送団の人間です」
「王党派なのね」
 女にしては随分と太く長く見える指を器用に操って、彼女は草臥れた亜麻色の前髪を掻き揚げ、それから煙に燻した大振りの葉で巻いた莨を、薄い唇の間に押し込んで火を点けた。未だ嘗て嗅いだことのない独特の甘ったるい芳香が、狭苦しい掘立小屋の内部に悠然と行き渡った。
「フェレーンから派遣された護送団が隠避船と手を組んだ挙句、危うく海の藻屑となりかけた。そういう間抜けな筋書きなの?」
「みっともない話ですが、その通りです。我々は不幸にも、洋上の難民と化したのです」
「みっともないとは思っていないような口振りだわ。貴方は、この窮状を愉しんでいるように見える。違う?」
「苦痛だとは思っていませんね。この程度の窮状は、苦痛を覚えるには値しません」
「頼もしい限りだわ。けれど、王党派の狗なんでしょう」
「私は誰の狗にもなった覚えはない。それだけは明確に断言しておきましょう」
 バエットの昂然たる発言に誑かされたように、クエルザの口許を嫣然たる微笑が覆った。彼女は満足げに幾度か頷いてみせた後で、肚を括ったように深く息を吐いた。
「私は革命派の一党なの。生憎、貴方とは政治的な信条が異なっているみたいね。尤も、貴方にとっては所詮、ダドリアの内乱は対岸の火事に過ぎないのかも知れないけれど」