サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 四十四 離島の淑女

 南洋の気怠い静寂と不穏の渦中に埋もれた昔日の墓標のように、その小屋は切り払われた樹林の一隅へ佇んでいた。私たちの訪問を待ち受けていたとは思えないが、少なくとも無惨な遭難者である私たちにとっては、その人工的な建築物は一種の運命的な恩寵のように感じられた。自然という非情な存在の懐に刻み込まれた、一つの僅かな人間の痕跡は、何よりも力強い励ましの情熱に満ちた、美しい希望の象徴のように見えた。
 だが、何もかも忘れ去って、眼前に突如として出現した壮麗な幻影の虜になってしまう訳にもいかなかった。誰でも等しく承知していることだろうが、人間という生き物は常に、敵と味方の境界線によって隔てられ、相手の所属に応じて善意と殺意を切り替えるという畏怖すべき性質を魂の奥底に宿している。その簡明な真理を擲って、手放しで「小屋」の登場を鑽仰する訳にはいかない。私たちの置かれている状況は少しも安穏なものではなく、見知らぬ土地の何処に得体の知れぬ強烈な艱難が、鼠捕りの罠のように仕掛けられているか分からないのだ。
「迂闊に踏み出すのは止した方がいいな」
 後列に控えて黙って待ち続ける立場に堪えかねて、銛撃ちのクラッツェルが野蛮な羆のような巨体を揺すってバエットの隣まで進み出て言った。
「どんな連中が潜んでいるか、知れたもんじゃねえ。腹を空かせた狂暴な野猿どもかもしれねえぜ」
「尤もな意見だが、我々に許された時間が乏しいことも、もう一つの確かな事実だ。そうだな、ジグレル?」
 両方の脾腹に分厚い掌を押し当てて、毅然と直立するバエットの眼には、爛々たる野心の光明が華々しく瞬いていた。今更、怖気付いて手を拱いたところで意味はないという隊長の宣言に、勇猛果敢な鯨捕りは颯爽と頷いてみせた。
「呼び鈴を鳴らして来いって言うんですかい?」
「それが礼儀ってものだと思わないか。何しろ、初対面だ」
「隊長の御命令なら、逆らいようもねえな」
 半ば冗談交じりの相談の末に、クラッツェルは一切の怯懦を振り捨てたような勢いで最初の一歩を乱暴に踏み出した。南洋の劇しい陽射しを浴びて、萎れた草花のように黒ずんで見える粗末な小屋の周辺に、人間の気配を読み取ることは出来なかった。誰が住んでいるのか、この辺りの島嶼に昔から住み着いている連中なのか、或いは洋上で遭遇した野蛮なフクロウの眷属なのか、偶に立ち寄る漁師たちの仮寓なのか、何れにせよ慎重を期すに越したことはないが、先鋒を引き受けたクラッツェルの足取りに、間怠い遅滞は微塵も纏いつかなかった。
「誰かいるか」
 驚くべき無鉄砲な率直さで、銛撃ちのクラッツェルは逞しい喉笛の筋肉を雷のように奮い立たせた。その大音声に驚いて、小屋の屋根に差し掛けられた梢から数羽の極彩色の鳥が飛び立ち、甲高く間の抜けた叫び声を撒き散らして蒼穹の片隅へ吸い込まれていった。
 暫くの間、小屋の周辺を取り巻く離島の静寂は少しも崩落しなかった。痺れを切らしたクラッツェルは再び、分厚い喉の粘膜を鞴のように動かして、大きな声で喚いた。それでも切り崩されずに留まり続ける沈黙は、劇しい灼熱の光の中で異様に澄明な凝結を示していた。
「誰もいねえのか! 誰もいねえのに、こんな小屋なんか建つ訳ねえよなあ!」
 敢えて挑発するように理不尽な文句を並べ立てるクラッツェルと、その果敢な奮戦を見守る後背地の私たちの視線の先で、不意に小屋の扉が軋みながら開いた。静まり返った私たちの眼差しは、薄汚れた上衣を纏った壮年の女性が徐に姿を現し、小屋の玄関から地面へ渡された踏み段に歩み寄る光景を無言で捉え、追跡した。彼女は色褪せた亜麻色の毛髪を油で整えて項の辺りで一つに束ね、鋭利な双眸を私たちに向けて固定した。
「煩い男ね。他人の庭先へいきなり踏み込んでおきながら、礼儀も何も弁えずに喚き立てるなんて、随分と育ちが悪いわ」
 悠然と紡ぎ出された女の口調には僅かな興奮の気配もなく、騒ぎ立てるクラッツェルと屈強な男たちの形作る異様な迫力にも全く怯む様子を見せなかった。豪胆な女だと、私は素直に感心した。見知らぬ不穏な男たちに取り囲まれても、荒事に慣れ切って退屈したかのように平然と振舞っている。しかも、こんな南洋の離島の寂れた小屋に引っ込んで、謎めいた時間を過ごしているのだ。尋常ならざる素性の女であることは確実だろう。
「餌でも探しに来たのかしら。見た感じ、漁師じゃないわね。あんたたち、一体何者なの?」
「難破したのさ。真水と食糧を必要としている」
 クラッツェルの代わりに小屋の踏み段へ歩み寄ったバエットが、冷静な口調で個人的な要求を提示した。女の素性が知れない段階で彼是と策略を弄するのも無益だと判断したのだろう。実際、そのときの私たちには入り組んだ議論よりも先ず、清冽で新鮮な真水と、乾涸びた胃袋を満足させる為の滋養が優先的に必要であった。
「汲み置きの湧水なら幾らでもあるわ。けれど、訳の分からない連中を歓待するほど、あたしたちは御人好しじゃないのよ」
「敵意はない。それは保証する。あんたの側に、敵意はあるか?」
 バエットの素気ない質問に、女は血色の良い唇をにやりと撓めた。
「それは、これから考えるべきことだわ。とりあえず、話を聞きましょうか」