サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「昊の棺」 9

 それから私は、潮風の吹き荒ぶ崖の上で、知らぬ間に眠りに落ちていた。眠っている間に、夢を見た。
 私は住み慣れた西船橋の家で、寝る仕度を整えていた。何故か傍らには、裸体の夏月が寄り添っていた。その表情は霞んで、傷ついたディスクのように読み取れない。しかし私は、彼女が裸体であることに当惑していなかった。
 敷かれた蒲団に、彼女の柔らかな肉体が滑り込んだ。それは長い間、私が眺めることも指先で触れることも叶わなかった、秘められた輪郭であり、その温もりは異様な渇きを齎した。彼女は何かを喋っていたが、その音声が指し示す意味までは記憶していない。確かに言えるのは、それが当時の私にとって望みようのない状況であったということだけだ。彼女は既に私の許を去り、私と暮らした家を置き捨てて、新しい世界に向けて旅立ち、消息を絶っていた。彼女が私に温かな掌を差し伸べる可能性は、万に一つも存在しない筈であった。だからこそ、克明に夢見てしまったのであろうか。それが絶対に不可能な現実であることを身に染みて理解していたからこそ、その反動のように、夢魔の宇宙で身勝手な幻を拵えたのだろうか。
 横たわった私の腕に、彼女は取り縋るように自分の腕を絡め、その体温を無遠慮に伝えてきた。気付けば、私も一糸纏わぬ無防備な姿に変じていた。夏月が好んで項に帯びていた香水の爽やかな匂いが、私の心臓を弾ませ、熾火のような情欲を揺り起こした。意識の片隅では、彼女を抱ける筈がないと警告する、誰かの沈着な声音が聞こえていた。自分には、彼女の肉体を愛する資格も権利も認められていない。積み重ねられた過ちが、越えてはならない堤防を決壊させてしまったのだ。改めて振り返れば、原因は幾つも思い当たるが、どれが致命傷だったのか、今更確かめる術はない。総ては終わってしまった。記憶の地層から、どんな答えを発掘したとしても、覆水は盆に返らない。
 そのとき、彼女が低い声で泣き出したことに気付いて、私は思わず上体を起こした。枕に顔を押し当てて、息を殺しているが、その喘ぐような吐息が、深い悲しみの表現であることを、私は記憶していた。きっと彼女は、新しい家族との間に何らかの問題を抱えているのだ。相手は離婚歴の持ち主であり、亡妻との間に儲けた小さな男の子を養っている。それが単なる男女の恋愛とは異質な難しさを孕むであろうことは、容易く想像し得る。母を失って心に見えない傷を負った繊弱な少年が、過敏で潔癖な性格の持ち主である夏月に、無償の愛情を求めて報われていると考えるのは、行き過ぎた楽観だ。自分の方針や信条を守り抜くことに関しては、狷介で狭量な女なのだ。母性愛という観念に、彼女の肖像画は結び付かない。況してや自分の腹を痛めた訳でもない、見知らぬ女の腹から産まれた少年に、あの夏月が無償の愛情を注ぐとは思えなかった。
 彼女の嗚咽は、私の正しさを裏付ける証明のように、耳朶を濡らした。憐憫が、此れまでの冷遇に対する怒りや、一方的な別れ話を仕掛けられたことへの恨みを押し流すように滾った。私は彼女の華奢な肩を掴み、泣き顔を見せようとしない強情を打ち砕こうとした。彼女の唇に耳を近付け、言葉にならない感情の切れ端を掬い取ろうとした。肌を寄せ合い、温もりを伝え合い、彼女の追い詰められた不幸を理解しようとした。まるで、あらゆる「手遅れ」を、この機会に埋め合わせ、償おうとするかのように、悲嘆する夏月の傍らで、私は献身的であった。
 澄ました耳に、抑えられた嗚咽が生々しく聞こえた。私は彼女が何か言葉を発するのを待った。新たな生活で彼女の身に降り注いだ困難の中身を、教えてくれるのを待った。それは要するに、切実な期待でもあった。彼女が、新たな生活の難しさを思い知ったことで、私との関係を見直してくれるかも知れないという、息詰まるような期待。其処には、言うまでもなく打算があった。追い詰められ、悲嘆の淵に沈んだ彼女の弱った心が、懐かしさを触媒として、再び私に振り向くのではないかという計算が、寄生虫の如く巣食っていた。
 耳許で聞こえていた嗚咽が、次第に調子を変えた。それが呻きにも似た、陰惨な笑い声であることに気付くまで、数秒の遅れを要した。潜められた笑い声が階段を駆け上がるように大きくなった。驚いて躰を離そうとした私の耳朶を、彼女の歯が猫のように咬んだ。
「どうってことないわ」

 見開いた双眸に、薄明が射していた。暫くの間、私は生々しい悪夢の余韻を引き摺ったまま、もがいていた。横たえた躰は芯まで冷えていて、明け方の潮風が夏の光を嬲るように吹き抜けた。岩場で眠った為に、背中の節々が痛んだ。
 立ち上がり、眺めた相模湾には、曙光がきらきらと舞っていた。遠くに漁船の影が見え、東から射す目映い光の中で、総ての事物が明瞭な輪郭を帯びていた。冷えた躰は、崖の上で油の切れた機械のように、醜い音を立てて軋んだ。
 背後を振り返ると、東天の高みに、日輪が燃えていた。それは鮮血のように禍々しい紅で、蒼穹を染めていた。黄金色に燃える日輪は、誰かに見凝められることを拒むように、劇しい光を束ねて、地表に絶え間なく投じていた。
 気圧されるように退り、強い喉の渇きを忌まわしく思った。夏月の顔が脳裡を過り、先刻の悪夢で耳にした、あの悪意に満ちた声が、何度も反響した。どうってことないわ。そうか、夏月。俺はもう本当に必要とされていないんだな。冷静に考えてみれば、それは当たり前の結論であった。過去は既に火葬された。拾えるものは、崩れた骨の欠片だけだ。そう思った瞬間に、何も怖くなくなった。生きていることに、意味も理由もなくなった私に、恐怖という感情が宿る必要はない。

 靴底が崖の縁に触れたのが分かった。私は大きく息を吸って、もう一度、日輪を見据えた。潮風が私の肌を励ますように叩いた。なんて清々しい朝焼けだろう。それは美しく、あらゆる憂いを払い除けるようであった。躰が大きく傾いだ。黄昏のように輝く空が見えた。潮風が下から轟々と吹き寄せた。鋼のような海面に叩き付けられるまで、恐らく五秒と掛からなかった。