サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(A Man who has been dry, without compassion for others)

*自分はどういう人間なのか、それを客観的に査定し、評価し、把握することは容易ではない。自分で自分の感情や信条や、抑圧された無意識の想念を適切に解剖し、その構造を闡明するのは一朝一夕に為し遂げられる些事ではない。何処まで突き進んでも、人間の認識は畢竟、主観性の監獄を突破出来ないし、自分自身の言動を綜合的な視野の下に一望することは極めて困難である。
 だからこそ、自分の内なる漠然とした、曖昧模糊たる情動や思念を明確で理性的な言葉の列なりに置換する営為は地道に繰り返されなければならない。人間が文章を書くのは、単に他者との回路の開拓を求めているからに留まらない。自分自身の思考を整理し、首尾一貫した理路を与え、自分が本当は何を考えているのか、客観的な形象として構築しなければならない。自分のことは自分が一番よく分かっていると断言するには、相応の努力の蓄積と、沈着な勇気が必要である。
 最近、自分はどういう人間なのかという主題を巡って彼是と考える時間を持った。そして、自分自身で自覚している以上に、私という人間は、他者の感情や思考に「共感」 compassion する能力が薄弱なのではないか、他者に対する関心が極めて稀薄なのではないかと感じるようになった。無論、それは直ちに他者との関係性に致命的な障碍を抱えているという意味ではない。人並みに妻子を持ち、勤め先は小売業であるから、日々不特定多数の顧客と接するし、アルバイトの従業員を数多く雇用しているがゆえに、年齢や性別、社会的立場の多様な人々と日常的に意思の疎通を図りながら働いている。だから、他者とのコミュニケーションに特筆すべき困難を感じているという訳ではない。しかし、周りから言われること、特に最も身近な存在である妻から指摘されること、そして自分自身の過去の行跡を顧みて得られた認識などを考え合わせると、根本的な部分において、私は他者の存在に主要な関心を置いていないのではないかという有力な仮説に行き着いた。
 妻に言われて腑に落ちたのは、私という人間の日頃の振舞いを観察する限りでは、他人に自分を理解してもらいたい、承認してもらいたい、称讃してもらいたいという欲望が稀薄なのではないかという指摘である。無論、私だって他人から褒められたり讃えられたりすれば気分は良い。けれども、他人の称讃を得る為に行動するのは恥ずべきことだという考えが根本的に存在しているように思う。理解されたくないという訳ではないが、理解されないならされないで別に構わないという冷淡な断念のような感情が、胸底に息衝いているのである。そして、他人に理解されないとしても、自分が望む道筋であるならば、そのまま突き進めばいいと考えている。他人の意見にも耳を傾けることはあるが、他人の意見に著しく影響されることは滅多にない。具体的な誰かに憧憬や尊崇の念を懐くことも殆どない。自分は自分、他人は他人で、そう簡単に相互的な理解へ辿り着ける筈がないと思い込んでいる。つまり、自他の領域の線引きが明確なのである。
 自他の領域の線引きが明確であるということは、言い換えれば、他者への共感が稀薄だということだ。それゆえ、他人の懐いているであろう様々な感情に、想像的な仕方で共鳴するという経験に乏しい。そもそも、感情が波立つことを余り好まない性格である。情緒的な不安定さによって、冷静な判断力が狂うことを嫌っているのだ。他人の感情に引き摺られて、自分も同じ心理的状態へ移行することを、原則として望んでいない。寧ろ成る可く冷静に、適切な距離を確保して、相手の状態を観察し、対処の手順を考えることに重きを置く。他者の感情に、想像的な仕方で没入せず、根本において、自他の明確な境界線を維持しようと企てている。とはいえ、他人に極端な関心を寄せないということは、別に他者という存在全般を嫌悪しているという意味ではない。コミュニケーションに苦痛を覚える訳でもない。単に、共感という作法が不得手なだけだ。そして共感の機能に関して基礎的な欠落が存在する分、他者の言動を冷静に観察し、分析することには長けている。感情を交えずに、客観的な観察の対象として他者を遇することが出来るのである。
*何故、他人への関心が稀薄なのか。相対的に考えれば、その分だけ自分自身への関心が強いということだろう。内向的、或いは内省的な性格で、他人との共同的な一体感よりも、自分自身の独立性や主体性を重んじているのである。自分自身の課題に集中したいので、他者の問題に深入りしようとは考えないし、仮に深入りしたとしても、飽く迄も問題の当事者は本人であり、本人の力で解決すべきだという方針は揺るがない。忠告や支援はしても、最終的な決定は自分の関知すべき事柄ではないと考えている。相手の感情に同調する姿勢が稀薄で、飽く迄も自分の意見に固執するので、冷淡な人間だと思われ易い。共感によって繋がるのではなく、専ら会話や議論を通じて相互理解を深めることを好む。名状し難い感情というものは、共有し得ないものだと認識している。相手がどうして、そういう感情を懐いているのか、理智的な分析を実行することは出来る。しかし、相手の感情を自分自身の感情として感受することは稀である。何故なら、他人は他人であり、自分は自分であるからだ。それゆえ、他人の意見に影響され難いし、相手に自分の意見を認めてもらいたいと切実に熱望することもない。理解してもらえれば嬉しいが、理解されることが最終的な目標であるとは言えない。そうした特徴は、このブログに収められている数々の文章の性質を徴する限りでも明瞭であるように思われる。明らかに私は、何よりも先ず自分自身の為に文章を書いていて、読む人の都合や立場を余り考慮に入れていない。より多くの人々に読んでもらう為の工夫を凝らしていないし、読者を愉しませる為の仕掛けや調整も徹底的に怠っている。読んで理解してくれる人が顕れたら勿論光栄に思うし感謝もするが、だからと言って、その人との間に強固な紐帯を築こうとは思わないし、そもそも、本当に理解してもらえているかどうか、疑わしいと考えている。
*他者に共感しないということは、他者の感情に影響されず、支配されず、振り回されないということである。同じ感情を懐くことより、銘々の感情が相互に調和して、相手の感情を毀損しないことを望む。それぞれが自由に、自分らしく過ごしていればそれで構わない。無論、全体の利益の為に、それぞれが共通の規範に対して一定の隷属を受け容れることは大事である。少なくとも、その規範が理論的な合理性を有するのならば、個人の感情に関わらず、従属すべきである。しかし、感情的な一体感を強要される筋合いはない。全員が同一の感情を共有する必要も必然性も存在しない。感情がどうであれ、それぞれの行動が、全体の理念や指標との間に合理的な相関を保っているのならば、それで充分である。感情は他者によって強いられるものではなく、常に内発的なものであり、従って万人が同一の感情を保ち、同一の感情に拘束され続けるというのは、明らかに醜悪な状況である。共感は同質性を前提としており、従って共感の原理は、異質な他者を包摂する力を持たない。大体、人間の感情というのは非常に頼りない、浮薄な幻影である。永続する保証もないし、寧ろ頻繁な変容こそ感情の明瞭な特性である。それほど頼りないものを唯一の紐帯として、他者との間に継続的な関係を構築し、維持することは困難である。大半の恋愛が訣別に帰着するのは論理的必然で、息絶えることを知らない恋心は存在しない。それは理性的な愛情に発展しない限り、必ず冷却の涯に絶息し、消滅する。そして円満な結婚生活の堅持に必要なのは、共感の強要ではなく、銘々の論理、銘々の主義、銘々の嗜好の尊重である。共感は出来ないが理解は出来る、理解に基づいて必要な配慮を行なう。こうした理性的な振舞いが、継続的な愛情の涵養を可能にする。共感に固執する人ほど、相手の変節を厳しく責め立てる。嫉妬や不安に苛まれる。極端に親しくなるか、極端に忌み嫌うか、その何れかになり易い。だが、自分自身の感情を絶対視するのは奇妙である。何故なら、人間の感情は極めて移ろい易く、不安定で脆弱なもので、長い人生の唯一の指針には値しないからである。従って、共感を好まない人間が、直ちに無関心な厭世家だという訳ではない。人は共感出来ないものを愛することが出来る。つまり、他人を。何故なら厳密には、他者に共感するということは、主観的な錯覚、不可能な錯覚に過ぎないからである。他者という異質な存在を愛する為には原理的に言って、共感だけでは足りない筈なのだ。

Cahier(After all, Nobody knows the Rightest Answer, Anyone has never been a Reliable Prophet)

*既に言い尽くされたことばかりだが、個人的備忘の為に書いておきたい。

新型コロナウイルスの英国型変異株の蔓延が急拡大し、大阪府は完全なる医療崩壊の危殆に瀕している。感染者の抑制に成功し、関東圏よりも一足先に緊急事態宣言を解除したのは二月末、それから未だ二箇月も経過していないのに状況は悪しき方向へ急変している。東京やその近県においても、変異株の検出が増加傾向にあるとのこと、何れ大阪の二の舞になることは確実であるように思われる。二度目の緊急事態宣言を解除して未だ一箇月も経たぬうちに三度目の緊急事態宣言発令の気配が漂うというのは、不穏な雲行きである。
 副作用の懸念は全く消滅していないとはいえ、ワクチンの接種を強力に推進している国々で、感染者数の劇的な改善が見られているという事実は、確かな希望の燈火である。しかし、日本国内の接種率は極めて低調で、供給量が限られているにも関わらず、注射器の準備の都合で接種の度に廃棄が出てしまうという実務的な課題も生じていると伝え聞く。少なくとも感染拡大抑制に関して言えば、ワクチンの接種が進捗するほどに状況は改善に向かうということは既に自明の事実である(差し当たって、副作用による健康被害の拡大の懸念は、感染拡大抑制という課題とは別種の領域に属する問題である)。しかし、供給の確保も、接種の現場における実務的な課題も、今のところ解決していない。従って安定的な感染抑制が、日本国内で長期的に実現する可能性は、他国と比べても低い。緊急事態宣言と銘打たれた強力な感染抑制対策の内実は、飲食店を20時に閉めることと、企業にリモートワークの推進を要請するということだけである。海外のロックダウンと比較すれば、その空洞化した権威と効力は疑いを容れないだろう。そして、飲食店に時短営業を強いるだけでは、充分な感染抑制の効果は得られないということは、東京都の感染者数の高止まりを踏まえれば明白である。そして、充分な感染者数の低減が為されないまま、宣言は解除された。そして一箇月も経たずに首都圏の感染者数は増加に転じている。蔓延防止措置という、緊急事態宣言より一段階緩い位置付けの感染防止対策が発令されたが、その内実は飲食店の時短営業とリモートワークの推奨のみ、従って今年一月に発令された緊急事態宣言と対策の内容において異なる点は存在しない。大阪府の吉村知事は、次回の緊急事態宣言においては、飲食店の時短営業のみでは不充分で、休業要請や対象とする業種の拡大、公教育の現場における活動の制約など、より踏み込んだ措置を取りたい旨の発言をしていると報道を通じて知った。賛否両論はあるだろうが、府知事の発言は正当なものである。少なくとも合理的な判断である。緊急事態宣言の中身をもっと強力なものに書き換えなければ、蔓延防止措置というカテゴリーを新設した意味がないし、本来ならば最強の切り札であるべき緊急事態宣言の効力を弱体化させたまま放置するのは、明らかに悪手である。
東京オリンピックパラリンピックについては、自民党の親玉である二階幹事長が遂に中止の選択肢に言及したことで、従来の強行一辺倒の風潮が一挙に流れを変えそうな気配である。開催の期日まで残り100日を切り、海外のメディアも、まさか日本は本気でオリンピックを強行する積りなのかという深刻な不安に駆られたかのように、計画の再考を促す論説や記事を発表し始めている。人流の抑制を訴えながら聖火リレーを断行し、大阪府が部活動の制限に踏み切る一方でオリンピック開催の決定は絶対に覆さないという政府や自治体の矛盾した方針に対する大衆の批判的意見は、日増しに募っている。オリンピックが、世界的規模の人流を惹起する危険を孕んだ行事であることは明白である。海外からの一般客の受け容れは断念したとはいえ、関係者や選手の入国を停止することは原理的に不可能であるし、日本国内の人流の増大も確実である。人流抑制が喫緊の課題であるならば、オリンピックの開催は中止以外の選択肢を持ち得ない。仮に開催直前の時期になって感染者数が減少していたとしても、ワクチンの接種すら儘ならず、特効薬も開発されていない状況の中で実施を強行すれば、オリンピックそのものが感染拡大の致命的な引鉄となることは殆ど確実であるように思われる。そこまでしてオリンピックを開催することに何の意味があるのか、仮にオリンピックの所為で爆発的な感染拡大が惹起された場合に、如何なる対処の方策が計画されているのか、という疑問は、多くの人々によって既に共有されているように見える。コロナの影響で生活の困窮を強いられている人々にとって、オリンピックに投じられる巨額の税金は、無慈悲な侮辱のように感じられるのではないだろうか。特に狙い撃ちにされている飲食業に携る人々の不満と絶望は計り知れないものがあるのではないか。
*とはいえ、人流を半永久的に抑制し続けることは困難であり、仮にそれが可能であったとしても、人流の抑制が社会に及ぼす深甚な悪影響を過小に評価することは出来ない。従って今後の状況改善の見通しは偏に、ワクチン接種の進捗の度合に左右されることになるだろう。問題は変異株に対する有効性の維持と、副作用の齎す未知の弊害への対処である。この二つの課題が適切に制御される限り、コロナウイルスが終息へ向かうことは確実であるように思われる。それと共に今後は、次なる感染症の襲来に備え、医療体制の整備(人材・検査・臨床及び入院・ワクチン及び治療薬開発)を進めることが重要な課題として議論されるだろう。新型コロナウイルスの蔓延は、医学的水準の高低が、その国家の政治的・経済的競争力や威信を左右する極めて重要なファクターであることを如実に証明した。同時に各国の危機管理能力の実質的な水準を鮮明に示す結果にも繋がった。危機管理というものが、適切で現実的な未来予測と、迅速で合理的な事前の対策によって構成されるものであるとするならば、少なくとも日本という国家(政府や自治体に限らず、医療機関や企業、民間の個人も含めて)の綜合的な危機管理能力は今のところ、有用な成果を示していないように思われる。コロナウイルスの襲来から一年余りが経っても、日毎の感染者数は減らず、病床は未だ逼迫を続け、ワクチンの接種は遅々として進捗していない。諸外国と比較して感染者数の絶対値は遥かに少ないにも拘らず、医療体制の慢性的な逼迫が是正されないという事実は、日本の医療における危機管理能力の脆弱性を示唆している(無論、この認識は医療従事者への感謝や尊敬の念と矛盾するものではない)。人流の抑制が最も重要な対策であることが、感染拡大の最初期から声高に喧伝されていたにも拘らず、数兆円規模の税金を投じて「Go To キャンペーン」と銘打たれた人流促進対策を敢行した政府の驚嘆すべき英断も、危機管理能力の顕著な劣化を鮮明に証するものであると言える(単に矛盾しているし、発言と行動、方針と施策が相互に咬み合っていない)。そして私自身も含めて、多くの人々は公私を問わず、他人との社会的交流を充分に遮断することが出来ていない。社会情勢を鑑みて、必要な範囲で強力なロックダウンに踏み切り、窮迫する者には公費を投じてその生活を保障し、オリンピックに就いては開催を断念するという風に進めていれば、無念の中止に関して国際的な同情の声も集まるだろうが、ワクチンの確保すら儘ならないのにオリンピックの実施は再考しないという狂気の沙汰を政府の音頭で演じていては、批判と嘲笑を自ら好んで購うようなものである。オリンピックをコロナに打ち克った証にしたいという菅総理の施政方針演説における謎めいた精神主義的宣言(或いは単なる幼稚な虚栄心だろうか)も、ただ寒々しく響く。何故なら、我々はコロナを聊かも克服しておらず、その見通しすら不透明であるからだ。まさに、捕らぬ狸の皮算用である。
*長い眼で見れば、ワクチンの接種が拡大し、感染者数が減少に向かうことは確実であるように思われる。治療薬の開発や医療体制の強化も、段階的には進められていくだろう。その意味では、現下の狂騒は永遠に続く地獄であるとは言えない。けれども、危機管理能力の深刻な劣化という問題が、自然に改善されていく見通しは存在しない。確かに我々人類は誰一人として、未来の確実な予知に成功する才覚には恵まれていない。誰もが混乱や憶測に呑み込まれ、適切な判断力を堅持することは常に至難の課題である。要するに人類はもっと賢くならなければならない。過去に学び、合理的な推論を積み重ね、未来を予測し、そして現在の行動を決定する。こうした叡智を一人一人が獲得する為には、公教育の改善のみならず「生涯学習」という理念の更なる普及が不可欠である。徐々に社会の風向きは変わりつつあるとはいえ、長い間、この国では「労働」と「教育」との間に決定的な断絶が横たわってきた。無論、所謂エリートに分類される人々にとって、両者の価値は今も昔も連続的なものとして存在しているだろう。しかし、多くの大衆的労働者にとって「教育」或いは「学習」は、高校や大学の卒業と共に終焉を迎えるものであり、その後の「学習」は専ら、自らの従事する職業の実務に関するものに限られてきた。自分の実務に関する知識さえあればいい、そして一昔前「男子厨房に入らず」の時代であれば、彼らは教養どころか、身近な家事に関する知識すら持ち合わせずに泰然としていたのである。
 日本が発展途上の段階にあり、巨大な伸びしろ、成長の余白を有していた時代ならば、そうした生活の形態は成立し、機能していたのだろうと思う。しかし、世の中の仕組みは刻々と複雑化し、通信技術の発達に伴って社会の変容は高速化している。知識や思考の価値自体も次々に更新されて、常識の劣化する速度は日毎に増している。学生時代の知識だけを携えて、長い人生を適切に泳ぎ切ることは難しくなっている。それゆえ、知識や思考を定期的に更新していく習慣を持たなければ、社会に適応することは年々不可能に近付いていく時代なのである。日々新たな知見が生まれ、無数の情報が氾濫する環境に身を置きながら、古色蒼然たる知識に縋って自らの言行を律するのは危険な選択である。十年前の常識が失効するまでのスパンが刻々と縮み続ける世の中で、何も学ぶ習慣がない、一冊の本も読まなければ特段の趣味もない、毎日定型的な業務に埋没し、残った時間は食事や排泄や睡眠や性交や、そうした生理的現象に終始しているという生き方を貫くのは余りに勇敢過ぎる。自分の頭で考え、行動出来る人材の育成が不可欠だと世上の企業は挙って言い立てている。実際、自分の頭で考える習慣がない人間は、社会に対する厄介な重荷になる。自分の意見も意志もなく、理想もなく、従って他人の意見を理解する能力にも欠けている。意見も理想もないから、行動を律する理由がなく、欲望や衝動に容易く流され、他人の意見や言動に直ぐ影響され、自分自身の人生と呼び得る時間を持つことすら出来ない。他人に指示されなければ行動出来ず、自力で結論を決定することも出来ない。生涯、他人の意向を推し量ることに明け暮れ、果たして自分が現在の生活に満足しているのかどうかも分からない。他人を説得したり、地道な努力を積み重ねたりして、何らかのゴールに辿り着こうとする意欲もない。要するに自立しておらず、主体性も備えておらず、何時までも赤ん坊のままである。洗練されない欲望だけが存在する。だから、社会の側に受け容れてもらえない。
 究極のところ、人間は自分自身との良好な関係を、つまり自己との対話の習慣を維持しなければならない。別の言葉で言えば、内省の習慣を持つということである。自分が何を考え、何を感じているのか、明確な言葉に置き換える習慣がなければ、自分自身にとって最善の選択を決定することも出来ないし、それを他人に向かって表現したり、他人と共有したりすることも出来ない。自分が何を知っていて、何を知らないのか、それが分からなければ、何を学ぶべきなのかも分からない。言葉は、曖昧な事象に明確な輪郭と形状を賦与する。それによって我々の思考の明瞭な対象が出現する。そうやって我々全員が少しずつ賢くなっていかなければ、危機管理能力の改善は期待出来ない。頼もしい預言者の降臨を待ち侘びても無益である。それより自分自身の頭脳を鍛える方が遥かに合理的で迅速な方法だ。

Cahier(Everyone can be young and beautiful, at least once a lifetime, but aging properly is too difficult to most of us)

*「時分の花」という言葉がある。能楽の大成者である世阿弥の遺した古典『風姿花伝』に登場する用語で、その年齢に固有の魅力、一過性の魅力を指す。
 私は今三十五歳で、人生百年時代と言われる昨今の風潮を鑑みれば充分に青臭い若造の部類に属する年代であろうと思われるが、自らの加齢に加え、職場で十代や二十代の社員、従業員と接する機会が多い所為か、若さというものの絶対的な価値、或いはその稀少な価値に就いて想いを巡らすことが増えている。或いは五歳の娘を見ていても、その漲る活力、疲れを知らぬ幅広い好奇心、片時も大人しくしていない筋金入りの能動性に眩暈のような感覚を懐くこともある。若く、無限の未来を備え、心身共に無尽蔵の活力と精気に満ち濫れている彼らの姿には、年齢を重ねた人間が永遠に喪失した固有の価値、有無を言わさぬ絶対的な魅力、つまり「時分の花」が明瞭に備わっている。そして多くの若者は、自らの若さの貴重な、不可逆的な魅力の真価を自覚的に取り扱っていない。我が身を顧みても、若い間は、自分の若さに気付いていない。だから、若さという特権を徒らに空費し、刻々と流れ去る時間の非情な圧力に拉がれて、気付けば空虚な馬齢を重ねるという仕儀に相成る訳だ。
 若い間は、若さは無限に存在するかのように茫漠と広がり、四囲に瀰漫し、殊更に珍重する気持ちにもならない。心身の若さゆえに、多少の蹉跌も疲弊も早晩恢復してしまうので、無軌道な行為、無思慮な選択が相対的に増加する。それが若さというものだと、結論付けるのは容易いが、世の中には賢明な若者というのがいて、「時分の花」の得難い価値を弁えるがゆえに、それを存分に活用して堅実な計画を構築し、着々と人生の段階を前に進めていく人もいる。彼らは時間が有限であり、若さが有限であり、無限の成長が不可能であり、何れは衰退の局面が必ず到来するという千篇一律の真理(無味乾燥で馬鹿馬鹿しいほど退屈な普遍的真理だ)を熟知し、早い段階から備えを怠らず、適切な努力を惜しまない。そういう人間にとって、若さの喪失は悲嘆の対象とはならず、予期された事態の出現に過ぎないだろう。
 年長者は若者に向かって、その心身の若さが一過性のものであることを好んで助言したがるが、その忠告の動機の半分が嫉妬や僻みであることは事実だとしても、もう半分は切実な共感或いは同情に発するものであると言うべきである。有限の価値を贅沢に浪費する人間、若さを活かして若さを越える何らかの価値を構築しようと心掛けない怠惰で驕慢な若者に、彼らは他人事とは思えぬ危機感を覚える。恐らくは愚かな自画像を眺めているような心持に陥るのだろう。期間限定の途方もない価値を無益に空費しつつある人々の鈍感な神経を目の当たりにして、居た堪れない心境に陥るのだろう。無論、若者の側からすれば、訳知り顔の年長者が嬉々として垂れ流す崇高な御説教は常に鬱陶しいものである。ただ、若さが有限の価値であるという真理そのものは、肝に銘じておいて損はないように思われる。
 古代ローマの政治家であり優れた文人でもあったセネカは「生の短さについて」と題された書簡体の文章の中で、人生の有限性を執拗に強調しながら、時間を空費することが如何に容易い過ちであるかという主題を巡って熱弁を揮っている。諸々の雑務に追われて、絶えざる「忙殺」の渦中で限りある生の貴重な時間を食い潰していくことの愚昧を、彼は切実な論調で読者の眼前に描き出してみせる。実際、若さという貴重な財貨は、自然と生命の摂理に従って、万人に対して平等に下賜されている。けれども、それを有益な目的の為に善用している人間は限られる。大抵の場合、人々は馬齢を重ねた後に若き日々の自堕落と無為を後悔し、時間の不可逆的性質を慨嘆する羽目に陥る。若いというだけで様々な機会に恵まれることは多いし、若さはそれ自体で持て囃される。けれども、若さに凭れ掛かり、その粗雑な濫用に終始した人間は、若さの衰退と共に著しい社会的無価値の状態へ没落することを強いられる。そうした逃れ難い宿命を極度に恐懼し、若さの絶頂において時間を停止させ、未来永劫の「美」を維持することに恋焦がれたのが、本邦の特異な芸術家・三島由紀夫であった。彼は若さの価値を殊更に称揚し、他方、老醜の無価値を心底忌み嫌っていた。
 適切に年齢を重ねること、年齢に相応しい成長や変化、適切な「出口戦略」の策定、これは生涯に亘る幸福な生活の維持にとって最も重要な課題である。若さという自然の価値が失われた後も猶、生きることに意義を見出し、社会的な諸価値を体現する為には、若いうちから相応の鍛錬が必要である。長期的な視野に立脚し、避け難い宿命を直視し、適切な対策を講じて迅速に実行へ移すこと、若いうちから、若さに固有の価値への依存を危険視すること、同時に若さの価値や魅力を存分に活用し、有益な成果に結び付けること、こうした綜合的な戦略の立案と実行は、我々の幸福な生涯の礎であり要である。若さは或る程度、自動的な成長を万人に齎す。けれども加齢は、そのような時間の恩恵の方向を反転させ、成長の代わりに慢性的な衰弱を人々に強制する。生得的な上昇気流に甘んじて努力や工夫を怠った人間は、気流が途絶えた後に為す術を持たず、慌てふためいて急速な顚落に呑み込まれる。老害と罵られ、退場を命じられる。無論、心身の衰弱は宿命であるから避け難い。問題は、衰弱の進行を緩和する方法の案出である。年齢を重ねても猶、知識も教養も能力も財産もなく、人格も磨かれていないという無惨な有様では、人生百年時代の果てしない晩節を適切な仕方で生き延びることは難しい。本当にただ時間が経過したに過ぎないのであれば、それは生きたというよりも、単に存在したというだけに過ぎない。何も生み出さず、何も貢献せず、ただ一個の動物として食事と排泄と睡眠と繁殖に明け暮れただけ、という結論に到達しかねない。無論、それ以上の価値の実現を望むのは烏滸がましい、人間も所詮は単なる動物に過ぎないという見解も有り得るだろう。だが、そのニヒリスティックなペシミズムに生産的な意義が備わっていると言えるだろうか。少なくとも、そうした諦観が人間の強力な幸福を樹立する貴重な支援の名に値するだろうか。多くの賢者は、人間に固有の価値を探し求めるところから、倫理学の研究を開始した。人間に固有の幸福を得ることが目的であるならば、人間と動物との質的差異を前提とするのは当然の手続きである。そして我々は、目的に応じて自己を統御する理智の権能を多かれ少なかれ宿している。理智は、来るべき世界の姿を事前に想像し、過ぎ去った経験から無数の教訓を抽出するという長期的な視野に基づいた活動を展開する。動物は己の年齢を自覚しない。しかし我々人間は、年齢という記号的な指標を参照して、己の旅程を、己の現在地を推定することが出来る。それならば、やはり自己の人生に固有の地図を描いて、今後の道程を計画するくらいの準備は、怠るべきではないのではないか。現在は常に未来と連動している。今日の私が、十年後の私を形作る。十年後に焦る必要の生じない今日を、私は出来る限り自分の手で着実に形作っていきたい。結果として望ましい未来が到来しなかったとしても、それは努力の無価値や放縦の優越を意味するものではないと信じて。

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Goblet of Fire”

 英語学習の一環として取り組んできた J.K.Rowling, HARRY POTTER and the Goblet of Fire, London, 2014 を漸く読了したので、感想文を認めておきたい。
 英文で617頁に達する分厚い書物であるから、全篇の通読には骨が折れた。しかし、明らかに自分の英語読解力が向上しているという喜ばしい手応えを実感している。無論、細部に亘って悉く英単語やセンテンスの精確な意味を審らかに把握し、理解しているとは言えない。けれども、少なくとも全く意味の分からない箇所というのは確実に減りつつあるし、記憶している語彙や定型的表現の数は徐々に増え、私の海馬に蓄積されつつある。この調子で訓練を継続していけば、年末には相応の水準まで私の読解力は進歩しているのではないかと楽観的な展望を懐いている。
 「ハリー・ポッター」シリーズの第四作に当たる本書では、ロード・ヴォルデモート Lord Voldemort に追従するデス・イーター Death Eaters たちの暗躍と彼らを粛正する特殊部隊 Auror の登場、過去の様々な犯罪と裁判、不幸な事件の数々が徐々に明らかにされていき、物語の全体に暗鬱で抑圧的なトーンを投げ掛けている。物語の言及する範囲はホグワーツ校内に留まらず、魔法省 Ministry of Magic の存在感が一挙に強まり、例えば第一巻の HARRY POTTER and the Philosopher's Stone に比べて、政治的=社会的な色彩が濃くなっている。学齢を重ねる毎にハリーの直面する課題や困難、冒険の性質は苛酷さを増している。それは或る数奇な運命に見舞われた少年の成長を物語るというシリーズの基本的なコンセプトに由来する自然な段階的変容であると言えるだろう。直面する課題の難易度や苛酷さの上昇はそのまま、ハリー自身の内面的成長と照応している。
 事実、ハリー・ポッターという潜在的才能と生得的栄光に庇護された少年の眼を通じて、読者は我々の所属する社会において日夜生起している諸々の艱難、課題、現象に直面し、対処に必要な振舞いを仮想的に経験しているのであり、それこそが文学、或いはフィクションの有する根本的な機能であると言える。我々の頭脳は他者の経験に共感したり、記憶力と想像力を用いて憑依的な追体験を行なったりする力を宿している。その崇高な機能を活用して、他者の経験や智慧を共有することは、人類の爆発的な発展を推進してきた基礎的な営為である。自分自身が実際に肌身で経験し得る事実の数は限定されている。物理的な制約、時間的有限性、実存に関する先天的条件などが、我々がそれぞれに選択し得る人生の範囲を必ず狭めてしまう。それゆえに我々は、他者の経験を拝借することで、人生の新たな局面や分野を開拓したり、或いは眼前の難事に対処するのに有益な智慧や効果的で実践的な手法を学んだりすることを慣習としてきたのである。
 ハリー・ポッターの経験する多様な事象は、魔法という非現実的な衣裳を纏っているとはいえ、その基本的な素材自体は紛れもない我々の社会的現実の内部から汲み上げられている。リタ・スキーターという性悪のジャーナリストが書き散らす様々な新聞記事によって標的とされた人々の威信が左右されたり、集合的な偏見が形成されて人々の言動に影響を及ぼしたりするのも、通信技術の発達した現代の社会に暮らす我々にとっては見慣れた風景である。言論に基づいた暴力によって、人々の社会的生命は過分な称讃を浴びたり、逆に致命的な危機に瀕したりする。偏見と差別が、人類の逃れ難い宿痾であることは、21世紀を迎えた今でも一向に革まる気配の見えない強固な事実である。或いは、ロード・ヴォルデモートとその信奉者たちの行使する過激で無慈悲な暴力によって、社会全体の紐帯が分断され、不信と反目が随所に繁茂し蔓延するのも、日々の社会的・政治的報道を徴する限りでは、現に我々の直面している掛け値なしの真実に他ならない。禁じられた呪文 unforgivable curses を濫用する彼らの非人道的な振舞いは、実際に我々の社会が経験しつつある陰鬱な真実なのである。拡大する格差、深刻な分断、残忍な排外主義は、21世紀の地球を覆い尽くし、猖獗を極めている深刻な病弊であり、それに立ち向かうべき人物はハリーだけではなく、そうした世界を生き延びて破局を免かれ、幸福で穏やかな生活を建設する為に智慧を絞り、具体的な行動を着実に積み重ねていくべきなのは他ならぬ我々である。
 とはいえ、作中で語られるクラウチ父子の演じた悲劇などを読むと、この困難な世界の有する絶望的な構造に名状し難い鬱屈を覚えさせられる。デス・イーターに対する苛烈で強硬な弾圧を指揮し、輿論の支持を一身に集めて次期魔法省大臣たることを嘱望されながら、実の息子がヴォルデモートの悪行に荷担していたことが露見し、肉親への愛情よりも自らの社会的名声と職務への忠誠を優先し、息子をアズカバンへ収監する決定を下したバーティ・クラウチの栄光と没落の顚末は、痛ましい不条理に縁取られている。同じ「父親殺し」の罪悪を強靭な紐帯に変えて結び付いたヴォルデモートとクラウチ・ジュニアの連帯は、解決されるべき悲劇の堅牢な性質を如実に物語っている。

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

Cahier(Polish Your Strength)

*春である。新入社員の配属が始まり、大規模な人事異動が実施され、昨年度の実績を踏まえた人事考課の面談が各所で行われている。私の勤め先は毎年五月が期初である。過去一年間の勤務の成果や各自の成長を振り返り、来期の方針や目標達成に向けて銘々が自身の行動計画を練る時期なのだ。
 過日、私も本部のオフィスで直属の上司と一次考課の面談の機会を持った。期初に設定した成果目標及び行動目標の評価と、個人の能力評価の二本柱で、夏の賞与と来期の給与の査定を行なうのである。その席上、強みと弱みの話に到った。人事考課は、個人の能力の棚卸や客観的な分析を実施する貴重な機会である。他人の眼を通して自己の姿、振舞い、特徴などを点検するのは、有益な時間である。
 長所と短所は表裏一体で、状況に応じて明暗を転じると一般に言われる。上司もそのように前置きした上で、私の仕事の特徴に就いて見解を述べた。群を抜いていると言われた点は、メンバーにルールを遵守させる力、危機管理能力、定めた目標に向かってブレることなく邁進し、達成を図る実行力などであった。同時にこれらの特徴は場合によっては短所にも転じる訳で、明確な目標に向かってやり抜く力は、プラスアルファの成果を求めないという欠点に通じる。また、自分が正しいと信じた途を徹底して突き進む姿勢は、動もすれば、他人の意見を参照して随時、路線転換を行なう柔軟性を欠くことになる。
 上司の見解は、私の腑に落ちた。恐らく私は、自分の考えや見解に揺るぎない自信を持ち易く、他人の見解を重用しないタイプの人間である。無論、他人の話に耳を傾けない訳ではない。しかし、結局のところ自分自身の考えや判断を優先する傾向がある。固より理屈っぽい性格で、他人の意見を一旦受け容れて試してみようと思う前に、あらゆる種類の反論が脳裡に浮かび上がってしまうのである。私が極度の傾聴を示す場合であっても、それは相手の見解に共感しているからではなく(無論、全く共感しない訳ではないが)、効果的で適切な論駁の材料を探しているに過ぎない。相手の議論の綻びや不備を綿密に検索しているのである(常に喧嘩腰であるという訳ではない)。
 もっと周りの意見に耳を傾けて、それを採用してみるべきだという評価は、以前の上司にもやんわりと言われたことがある。自分自身では、別に他人の意見を軽視している積りもないのに、類似の評価を複数の人々から告げられるということは(上司に限らず、妻や知人からも)、そういった姿勢が、自覚している以上に鮮明に滲み出ているということだろう。頗る単純化して言えば、頑迷で、自分の正義を信用し過ぎているということだ。無論、だからこそ逆境に挫けることなく、自分の掲げた目標に向かってブレずに邁進することも出来るのだろう。
 周囲の意見を柔軟に受け容れ、皆で一緒にやってみようという共同的なスタンスの人材に比べれば、私のようなタイプの人間は頗る独裁的・独善的なスタンスであると言えるだろう。私と対極的なタイプの人間は誰ですかと尋ねられた上司は、暫し考え込んだ後に、私より五歳ほど年下の女性社員の名前を挙げた。今から五年ほど前、私は千葉県内の店舗で、彼女と一緒に働いていたことがある。常に明るく、自分が他人の眼にどう映るかということに就いての感覚が極めて鋭敏で、悪く言えば如才ない、腹黒い立ち回り方の得意な女性である。言い換えれば、人間関係の天才である。呼吸するように媚びることが出来るし、しかも媚び方が自然なので厭味がない(ちなみに私は彼女の悪口を羅列しているのではない。自分とは全く異質な才能に、常日頃から感嘆している。彼女は部下として非常に有能な人材であったし、今は私の後任として千葉の店舗で責任者を務めている)。
 自分自身の私的な感情や考えより、周囲を愉しませたり盛り上げたりすることを優先するスタンス、自分一人で判断して決定を下すというより、他人と話し合って一つの意見を作り上げていく合議的スタンス、それを彼女ほど徹底的に磨き上げている人材は稀である。他人の悪口など言わないし、仮に言うとしても極めて迂遠に、巧妙な言い方で仄めかす。必ず周りが笑える程度に稀釈された悪口なので、不快な印象を与えない。絶対的な正義を振り翳して他人を論破することも絶対にない。最終的には、全員が等しく愉しい時間を共有することがゴールなのである。しかし、だからと言って他人の言いなりになる訳でもなく、自分自身の利害を考慮しない訳でもない。悪く言えば打算的な性質で、打算的であるという点に関して言えば私も同類である。要するに、自分の目的を達成するに当たって、他人との関係をどのように利用するかという手法が、私と彼女とでは異なっているのだ。リーダーシップ、或いはコミュニケーションのスタンスが違っていると言ってもいい。
 私が他人に働きかけるとき、主に用いるのは正義と論理である。論理的に構成された正しさに基づいて、私は物事を判断し、決定を下し、他者に共有し、命令し、依頼する。分析することが得意で、皮肉の効いたブラックな諧謔を濫用し、辛辣な批判を加えることに余り躊躇を感じない。それゆえに冷酷だとか、サイコパスだとか、そういったレッテルを頂戴することが多い。無害なユーモアではなく、多かれ少なかれ毒素の混じった攻撃的な軽口や自虐が好みなのである。反論されると血が騒ぐ。毒舌の応酬に興奮する。相手の意見を覆すのも好きだが、覆されるのも嫌いではない。しかし最終的には概ね、自分の見解の正しさを信じ切っている。目上の人間の意見でさえ、内容に納得がいかなければ聞き流してしまう。こう並べてみると途方もなく傲慢な人間だが、それゆえ逆境には強い。他人の意見に左右され難いので、逆境においても淡々と歩み続けることが出来るからである。従って、長期的な計画の遂行には向いている。
 他方、彼女は共感の天才である。相手の話に共感し、反応し、同調する技能が卓越している。批判的なニュアンスの軽口は滅多に用いない。サービス精神が旺盛で、尊敬や賞讃の言葉を極めてナチュラルに駆使することが出来るので、どんな相手にも気に入られる。けれども、その共感は極めて洗練された技巧であって、本当の意味で自分自身を切り売りすることはない。特定の人物にだけ忠誠や愛情を誓うという姿勢が稀薄である。究極の八方美人であると言えるかも知れない。相手が何を歓ぶのかを絶えず観察し、必要な対応を計算している。それゆえ、彼女の本音が何処にあるのか、彼女自身の信念が見え辛い。遠い理想に向かって計画的に進んで行くというより、その都度の瞬発力で勝負する。単一の規範に基づいて物事の全体を管理するということは、余り得意ではない。複数の他者の意向に合わせ過ぎるので、規範を維持し、貫徹することが難しいのだ。その分、状況の変化に応じた機敏な判断力は傑出している。その場の空気を読み取る感覚も冴えている。
 人間の個性は様々である。面談の席上、総てが平均点の人材は評価され難く生き残り辛いと上司は言った。余り偏り過ぎるのも考え物だが、どうやら私は既に随分偏っているようだ。サイコパスならばサイコパスらしく、その強みを鋭利に磨いて生き残るべし。

Cahier(Hybrid Language as Historical Heritage)

*引き続き、英語学習に明け暮れている。今読み進めているハリー・ポッターの第四巻 HARRY POTTER and the Goblet of Fire は、手許のペーパーバックで617頁という途方もない破壊力で、現時点で漸く約400頁まで辿り着いたところである。しかも、これまでの巻に比べて頁当たりの印刷された字数が明らかに多い。純然たる異国の言葉だけで綴られた、こんなに分厚い書物を、純然たる個人的趣味として繙読している自分の奇矯さが時々怪訝に感じられることもあるが、ハリー・ポッターの数奇な運命、魅惑的な細部、緻密な構成に助けられて、遅々たる歩みとはいえ、語学的冒険の旅路は順調である。
 言語という制度は、改めて考えてみると摩訶不思議な体系で、その歴史的起源は未だ完全には解明されていないが、あらゆる人種、あらゆる民族が何らかの言語を用いて同胞との意思疎通を図り、自分の考えを伝達したり、相手の考えを享受したりする営為を日常的に遂行している。更に文字を駆使して、言語的コミュニケーションの成立する範囲を限定された時空から解放し、地理的な障壁や時間的な疎隔を越えて、他者のメッセージを受け取ることを可能にしている。これらの偉大な発明が、人類の発展に寄与した影響の大きさは計り知れない。尚且つ言語は、他者のみならず、自己自身との内省的対話の成立にも重要な手段を提供した。自分の考えを言語化するという地道な作業は、他者との回路を開拓するのみならず、自己認識の精度の向上にも顕著な貢献を果たしているのである。言い換えれば、言語は秘められた個人的な観念や心情を、或る公共的な規則の体系の裡に配置することで、個人的なものを社会的な領域に登録する機能を担っているのだ。
 従って語学は、秘められたもの、形のないものに、明確な客観的輪郭を与える能力の涵養に直接的に役立つ。多くの人間は母国語の監獄の中に幽閉されているが、異国の言葉を学習することによって、その宿命的な限界は超克される。言語の種類によって、事物に対する解釈の手順や方法は異なる。日本語によって解釈された世界と、英語によって解釈された世界との間には、無数の相対的差異が存在する。解釈の豊饒な多様性は、個人の精神的な規模を拡張し、発達させる。その意味で、語学の勉強は紛れもない知性的冒険、頗る刺戟的な挑戦の連続である。母国語に通暁することと、異国の言葉を詳しく学ぶこととは、相互に背馳しない。寧ろそれらは相乗的な発達の軌跡を描くのである。
*言語は確かに手段であり道具である。しかし、それらは無機質で透明な製品のような性質を備えている訳ではない。あらゆる言語は、それぞれに固有の歴史を持ち、多くの偶然に左右されながら、独自の発達と衰弱を繰り返してきた。従って言語は、予め完璧に計画された、一つの矛盾も不備も無駄も含まない澄明な体系では有り得ない。如何なる例外も含まない文法や、あらゆる事象を完全に包摂する語彙の体系が実在することはない。そもそも我々の暮らす四囲の現実が歴史的転変に接し続ける限り、完璧な言語が事前に存在するというプラトニックな発想を堅持することは、妥当な判断であるとは言えない。現実の転変に応じて、言語は様々な構造的変容を反復し、現時点の状態に達している。この状態は決して最終的な結論ではなく、今後も現実の変容に応じて、それを用いる人々の思想、信条、感覚の変容に応じて、無限の更新を積み重ねていくだろう。従って、言語を学ぶことは必然的に、その言語の歴史を学ぶことであり、その言語に固有の文化的背景を知ることに繋がっていく。例えば日本語には漢字という中国由来の文字表記体系が有り、無数の漢語が熟語として日本語の高度な表現力の重要な屋台骨を成している。同様に、英語にはギリシャ語やラテン語、フランス語に由来する夥しい数の語彙が含有され、英語の表現の幅や多様性を支えている。そして言語表現には絶えざる栄枯盛衰と自然淘汰があり、先人の遺した数え切れないほどの判例が、言語運用に関する規範の制定に関与している。言い換えれば、言語には先験的な絶対的規則が備わっているのではなく、人々の固有の言語的実践の総体が、文法や語彙の正当性を支える唯一の根拠なのである。記号と意味との対応関係は、恒常的な固定性を有していない。これは重要な問題で、例えば我々が「思考する」とき、我々は何らかの記号に対応する意味の再編に取り組んでいるのだと言える。言語的記号体系よりも遥かに複雑で流動的な四囲の現実に対して、新たな語彙や文法、新たな表現を案出すること、そして使い古された言葉の定義を改変し、新たな対応関係を創出し、構築すること、これらは人間的思考の本質を形作る作業である。例えば古代ギリシア濫觴を持つ「哲学」(philosophy)の思考は、プラトンの対話篇などに明瞭な形で示されている通り、我々が日常的に用いる「単語」の定義を再審に附すことによって始動する。単語の定義を厳格化することによって、或る事物の本質を究明しようとする知的な努力が、哲学の本領である。或いは、そこまで高尚な事例を挙げずとも、我々の日常生活の随所において、様々な議論が共通の「単語」を巡って繰り広げられている。今日の夕食の献立を何にするかという些末な問題に限っても、単語の定義の明確化や再編は避けて通れないプロセスである。
*人間の精神的成長に関して、言語的学習が占める比重は極めて巨大である。言葉の群れから現実を再生するという抽象的作業は、未知の事柄に関する学習の遂行において、決定的な重要性を備えている。我々はあらゆる出来事を自分自身の実体験として味わうことは出来ない。他人の経験を拝借し、他人の智慧に学ぶという「共有」のプロセスを欠いてしまえば、途端に我々の学習と成長の過程は深刻な停滞の渦中へ埋没するだろう。言語的表現は、具体的現実の置き換えられた形態である。その置き換えられた形態を経由して、現実を擬似的に再生するという高度な知性的営為が、人類の爆発的発展の中核を成す要諦であることは鮮明だ。圧縮された表現を解凍して、豊饒な現実へ手を伸ばす為には、圧縮と解凍の技術に能う限り通暁せねばならない。

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

Harry Potter and the Goblet of Fire (Harry Potter 4)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

Cahier(A Burning Desire for Approval)

*四月から私の直属の部下となる問題児と会社のオフィスで二時間ばかり面談をした。話頭は多岐に亘り、その仔細を悉くここに明示することは出来ない。そもそも業務及び個人の事情に関連する話柄であるから、妄りに公開して許されるような種類の内容ではない。ただ書き記しておきたいのは、私がそのときに感受した、怠惰で聊か奇矯な性格の持ち主である彼の抱え込んでいる根深い承認欲求の熱量であった。
 彼は会社から有能な人材として評価されていない。それゆえに複数回に亘って降格の憂き目に遭っている。そのこと自体は、彼も自覚していない訳ではない。しかし、深刻な承認欲求、満たされずに燻っている承認欲求が、冷遇されている自分という卑近な現実を果敢に直視する意欲を失わせているのではないかと、私は判断した。会社からの低調な評価のみならず、数年前に破綻した不幸な結婚生活の影響も深甚であるらしい。
 恐らく彼も相応の情熱や矜持は持ち合わせているのだが、如何せん能力が足りず、自己を律する厳しさも欠いている。それゆえに改善しない自己の社会的評価は、恐らく彼の旺盛な承認欲求を著しく毀損しているだろうと思われる。彼も有能な人材として活躍し、周囲から評価され、信頼され、尊敬されたいと切実に願っている。にも拘らず、彼の勤務態度や業務の作法は無数の怠慢に彩られている。仕事の納期を守らず、上司の指示や方針を遵守せず、衛生観念に乏しい。仕事が芳しい成果に結び付かない理由を他者や外的条件の裡にばかり探し求めて難詰する。非常に饒舌で、他人の会話に嘴を突っ込まずにはいられない。頗る大雑把な言い方をすれば、彼は要するに愛情と信頼に餓えているように見える。それなのに怠惰な性格で堅実な努力を積み上げないから、実質的な愛情と信頼を享受することが出来ない。愛情や信頼は一朝一夕に得られるものではないし、鍍金は必ず剝落する定めである。愛情や信頼を得る為には、地道な努力を積み重ね、表層的な言葉ではなく質実な行動によって自己を表現する心掛が欠かせない。しかし彼は大言壮語を弄するばかりで、具体的な行動には無関心だから、口先だけの男として密かに軽侮される。行動を積み重ねないので具体的な成果にも結び付かず、会社の評価も伸び悩む。結果として冷遇されるという悪循環に陥っている。その現実を直視せずに、自己啓発的な動画の類に熱中して、狡猾な教祖様の説法を有難く拝聴し、それを身近な他人に勧めて回る。他人の意見を過剰に称揚し、それを如何にも普遍的な真実であるかのように吹聴して回るのは、概ね主体性のない空虚な人間の常套である。
 自己対話の欠如、内省の欠如、それが過剰な承認欲求や、過剰な依存を生み出す悪しき温床となる。自分自身の考えや意志を分析する習慣、我が身を顧みて長所を伸ばし短所を是正する習慣、真実とは何かを恒常的に思案する習慣、こうしたものが欠落していると、人間は主体性や自立性から限りなく隔たる。また、他人からの信頼や愛情を安価なものだと誤解するのも好ましくない傾向である。信頼の獲得は、一足飛びに為し遂げ得るものではない。巧言令色の賜物でもない。具体的な行動、具体的な発言を通じて、誰もが他人の価値を値踏みする。その厳しい吟味に堪えたものだけが安定した信頼の懐に安らうことが出来る。
 主体性のない人間は、他者の意向に良くも悪くも大きく左右される。敬愛の度が過ぎて盲信を捧げたり、過度の恐怖を懐いて委縮したり、何れにせよ他者との適切な距離を保持することが出来ない。要するに自立が足りないのである。だから孤独に堪えたり報われない努力に打ち込んだりする粘り強さが永遠に養われない。従って艱難辛苦を乗り越える強さも手に入らない。信念を語っても、その信念の妥当性を、具体的な行動を通じて検証する勇気が発揮出来ないので、信念はずっと画餅に終始する。思考の価値は、現実的な検証を通じて究明されねばならない。そうでなければ、信念とは要するに妄想の同義語である。
 承認欲求に身を焦がすのは大いに結構だが、思い込みで現実が書き換えられることはない。現実を変えるには具体的な行動が不可欠である。承認欲求を満たしたいのであれば、その具体的な方策を講じなければならない。そして、過度な理想、過度な期待に振り回されるくらいなら、それらは速やかに棄却してしまった方がいい。具体的な価値、具体的な行動、具体的な現実の渦中で、実質的な利得を確保せねばならない。そうでなければ、現実に対する夥しい不平不満の泥沼で溺死する悲運に見舞われるだろう。そして、誰もが努力次第であらゆる願望を叶えられる訳ではないという自明の現実を踏まえて、事に臨むべきである。現実的な目標の達成を積み重ねる以外に、壮大な希望を実現する方途は存在しない。現実を変革したいと願うのは人間の生得的な欲求であり、それが世界の革新を促す最も重要な原動力として機能してきたことは歴史的な事実である。但し、実現とは奇蹟の顕現を意味するものではない。現実の局所的な変形に過ぎない。それ以上を望むのは余りに法外な要求だ。何を望むにしても、具体的な行動の蓄積以外に手立てはない。奔放な夢想を語るのは個人の趣味に留めるべきで、意見だけで人は変わらないし、現実もまた姿を変えない。この文章は無論、自戒の為に綴られている。