サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

言葉について語ることが何故、視野を拓くのか 柄谷行人「畏怖する人間」

 「文学」という言葉を聞いてどのようなイメージを浮かべるのかは、人によって意見の分かれるところだろう。堅苦しくて面倒臭そうで近寄りたくない、という印象を持つ人も少なからず存在するだろうし、余り親しげなイメージのある言葉ではないと思う人の方が世間では多数派かも知れない。

 私自身、文学という硬派な用語に殊更な愛着を覚えている訳ではない。だが、単に「小説」や「詩」や「哲学」といった言葉だけでは括り切れない何かがあるから、こうやって現に「文学」という単語が流通していることは事実だろう。単語というのは、絶えず他の単語との関係性の中で、その指し示す意味の範囲を定義されている。譬えるなら、それは野球の守備のようなものだ。ショートというポジションが存在しなければ、ライトやレフトやセカンドやサードが、そのポジションを分け合いながら庇うだろう。だが、それでは守り切れない遺漏がどうしても拭えない場合には、新しく「ショート」というポジション=概念を発明しなければならない。恐らくそういう絡繰は、外国語を日本語へ翻訳する場合に鮮明に見て取れるだろう。明治時代、夥しい文物と共に西洋から輸入された様々な言葉=概念を日本語へ移し替えるに当たり、先人たちは悪戦苦闘を積み重ねたという。「自由」も「社会」も、それまで日本には存在しなかった概念であり、旧来の日本語では言い表すことの困難な独特の領域を指す言葉であった。そこに「自由」や「社会」という言葉を当て嵌めたとき、日本語の総体と、日本語を媒介として思考する私たち日本人の「世界観」は間違いなく拡張されたのである。

 単に「小説」でも「詩歌」でもなく、敢えて「文学」という単語を用いるとき、私たちは無意識のうちに或る包括的な概念を指し示そうとしている。それは文字で綴られたり、声で語られたりする「虚構の物語」全般を限定的に指差しているのではない。或いは、俳句や短歌や散文詩のような一定の形式に基づいて綴られた「音楽的な言葉」だけを意味するのでもない。「文学」という言葉は常に、より根源的で綜合的な営為を呼び出す為に用いられる呪符のようなものだ。それは「読み書きされるもの」全般を含み、語られるものと聞かれるものの総てを抱え込んでいる。抽象的に過ぎるだろうか? だが、それが「文学」の最も本質的な定義であることは確かなのだ。

 柄谷行人という批評家の著述に触れるとき、私はいつも「書くこと」が何故こんなにもエキサイティングなのだろうかと考え込んでしまう。この偉大な批評家が自らの経歴の初期において書き綴った、主に小説などについてのエッセイが、何故これほどまでに刺激的な感興を齎すのだろうか。簡潔に言い切ってしまえば、この「畏怖する人間」という評論の集成の中で、作者は只管、小説を精緻に「読み」、そこから触発された思念を巡って「書いて」いるに過ぎない。無論、実生活における記憶や経験も含まれているには違いないが、中心的な営みとして存在するのはあくまでも「読み書き」である。そこから、こんなにも斬新で目映い風景が励起されてくるのは何故なのか。

 試みに、講談社文芸文庫版の『畏怖する人間』の巻頭に収められている「意識と自然」という夏目漱石論の冒頭を引用してみよう。

 漱石の長篇小説、とくに『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを読むと、なにか小説の主題が二重に分裂しており、はなはだしいばあいには、それらが別個に無関係に展開されている、といった感を禁じえない。たとえば、『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であり、『行人』は「Hからの手紙」の部分と明らかに断絶している。また『こゝろ』の先生の自殺も罪の意識と結びつけるには不充分な唐突ななにかがある。われわれはこれをどう解すべきなのだろうか。まずここからはじめよう。

 むろんこれをたんに構成的破綻とよんでしまうならば、不毛な批評に終るほかはない。ここには、漱石がいかに技巧的に習熟し練達した書き手であったとしても避けえなかったにちがいない内在的な条件があると考えるべきである。(『畏怖する人間』講談社文芸文庫

 これは学術的な実証性に裏打ちされた文章であるとは言い難い。夏目漱石の小説を読んだ作者が、一個の人間として懐いた「感想」が、総ての思索の出発点となっている。その些細で私的な「違和感」のようなものを糸口として、ここから作者が広げていく想像の豊かさと論理の美しさは、まるで優れた芸術作品のように、私の心身を興奮させる。作者はあくまでも個人的な営為として小説を読み、その読書を通じて手に入れた思索の萌芽を、小麦粉の生地を麺棒で平たく延ばすように、こつこつと文章に書き起こして、不可視の闇に繋がった命綱を手繰っているに過ぎない。だが、その極めて個人的な「読書」の営為が、全く赤の他人である私の精神を動揺させ、震撼させるのだ。ここには「文学」というものの本質的な側面が露頭している。文章を読み、書くこと、その地道な営みの内側に、私たちの魂へ通じる回路を押し開くような力が含有されているのだ、ということが、この文章の随所に目映い啓示のように鏤められているのだ。

 漱石の小説を読んでいて覚えた「違和感」を切り口として、実に多種多様な問題に話を広げていく作者の犀利な知性に、私はいつも尊崇の念を懐いてしまう。確かに「畏怖する人間」に収録されている文学的なエッセイの数々が、堅苦しく面倒臭い話柄ばかりを扱っていることは間違いない事実だが、それでも精神を揺さ振られずにいられないのは、これらの文章に躍動している作者の「思索」が、読者の「思索」との間に奇妙な共鳴を惹起しているからだろう。このエキサイティングな感覚は、個人的な思索が新しい境域を切り拓こうとするダイナミズムから派生している。そして、その根源には常に「読む」という行為が介在しているのである。

 本を読むことは、文字さえ識っていれば誰にとっても容易な営為であるかのように感じられる。しかし、往々にして人は、書物を繙読しつつ、片っ端からその内容を忘却の深淵へ抛り込んでしまうものだ。或る書物の「意味」を理解したり、その「意味」を明瞭に記憶し続けるということは、実際には極めて困難な作業である。余程感激したとしても、或る小説の細部を一字一句、胸に刻みつけることはとても難しい。だが、そうやって獲得された情報や認識を「文章」として書き留め、入念に敷衍していく作業を怠らなければ、読書から得られる果実は遥かに豊饒なものとなる。誰しも最初は「言葉を教わる」段階から始める以上、書くことは常に読むことを前提とするに決まっている。但し、それはあくまでも一面的な見方であって、別の角度から眺めるならば、読むことは常に書くことによって完結し、一つのフェーズを卒えるものだとも言い得るのだ。

 私たちが日常的に使用する言葉の意味が、辞書に記された語釈に唯々諾々と従属するものでないことは言うまでもない。単語の定義は、その単語が発せられる状況や文脈に応じて千変万化するのが普通なのだ。だからこそ、言葉を読み解くことは無限の変奏を伴うように定められてしまう。それは簡明な理解を妨げる要因かもしれない。だが、別の角度から言えば、その千変万化の変奏が有り得る御蔭で、私たちの思索は無限の可能性を孕むことが出来る。夏目漱石の小説から「意識と自然」という優れた思索の結晶を抽出し得るのが、柄谷行人という作家以外に有り得ないのは、そこに固有の「変奏」が息衝いているからである。

 そうやって獲得された私的な思索の成果を「読む」ことで、私たちもまた、自分なりの変奏を試みることが可能になる。そうした継承と反復の総体が、所謂「文学」というラベルで総括される領域を形成している。「小説」だとか「詩歌」だとか、そういう表面的で形式的な区分を破砕するような根源的営為として、「文学」は存在し、稼働しているのだ。その意味で、たとえ「文学」の外観がいかに堅苦しくて面倒臭そうなものであったとしても、「考える葦」である私たち人間が「文学」に属する諸々の営為と仲違いし続けることは不可能であると言わねばならない。

畏怖する人間 (講談社文芸文庫)

畏怖する人間 (講談社文芸文庫)