サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「小説」の多様な生態系

 話は小説に限らないが、小説ということに的を絞って書かせてもらうと、人間がそれぞれの個性というものを不可避的に備えざるを得ないことと相関するように、小説というのは実に多様な形式を取り得るし、それらは一見すると互いに全く異質な原理によって綴られているように見える。

 無論、或るジャンルというものが歴史的な階梯を辿って徐々に成熟していくうちに、様々な慣例や不文律が形成され、それに自ずと呪縛されてしまうようになるという事態は、文学の領域に限らず、私たち人間の社会においては普遍的な現象である。誰かの達成した巨大な成功に眼が眩むのは人間の本源的な性であり、右に倣えの前例主義が蔓延るのは単なる臆病さや怠慢の結果であるとは言い切れない。それは社会的ダーウィニズムのような適応の原理に即している。

 だが、小説というジャンルが嘗て備えていた厖大な活力は、それが前例や不文律に対する果敢で個人的な、つまりオフィシャルに是認されていない未踏の抵抗として組織され、生み出されたことと不可分の関係にある。どんな芸術家も、芸術家としての矜持、或いは本能に忠実である限りは、自由であることへの度し難い執着を手放すことは出来ない。小説家も無論例外ではなく、その本質的な性向は自由への憧憬に貫かれている筈であり、彼らは文章を書くこと、小説を書くことに関して常時「自由」に対する距離を測り続けている筈である。自由とは何か? それは字義通りの素朴な言い方を用いるならば、あらゆる因習に囚われないということであり、決まり切ったテンプレートに従属しないということである。無論、どんな人間も過去の遺産から完全に切り離された状態で行動し、思索することは出来ない。そもそも言語にしても絵画にしても音楽にしても、それらの芸術的営為は或るテクノロジーに基づいて営まれることを本質的な必然として背負っており、尚且つそれらのテクノロジーは人間の社会的な営為の堆積の末に形成された、或る歴史的な産物なのである。だが、私たちの存在が様々な社会的=歴史的経緯に規定されているということと、私たちがその先験的な規定に積極的に隷属していかなければならないという道徳的な要請との間に、論理的な等式を求める必要はない。私たちは幾らでも存分に「自由」に憧れて良いのであり、そこにしか芸術的な営為の本質的な活力は存在しない。芸術は誰かに媚びるものでも、社会的な評価に恋焦がれるものでもない。それは縮こまった窮屈な枠組みを「押し開く」行為の総称である。