サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「古都」 8

 小さい頃の記憶は、きれぎれにある。あたしが未だ幼稚園に通っていた頃、ママはいつも言っていた。そんなお転婆なことは慎んで、と。慎むという難しい言い方も、しつこく繰り返されるうちに、あたしの小さな耳によく馴染んでいた。思えば、それが総ての始まりだったのだ。
 ママは潔癖な人だ、と親戚のおじさんが言っていた。ケッペキという言葉の、突き刺すような、斬り捨てるような五感から、あたしはいつも台所にある銀色の包丁を思った。確かにママはいつも夕方になると、その銀色の包丁を握っているわ。だからなの、おじさん。だけど、ママの前では、ケッペキという言葉を口にするのが怖かった。それが好ましい意味で使われていないことは、幼心にもそれとなく通じていた。
 だからって、ママのことを憎んでいたのではない。そもそも、幼稚園に通うぐらいの年頃の子供に、親をわざわざ憎む力なんて育っていない。ママのことは大好きで、いつも愛されたいと思っていた。愛されたいという言葉を学ぶ前から、きっとまっすぐに、飛行機雲のように、幼い本能で劇しく恋焦がれていたのだ。それがうまく言葉に出来なくても、あたしはその感情の実在を、小さな躰の隅々ではっきりと分かっていた。ケッペキがこの心に時折鋭く突き刺さっても、少しも揺らがないくらい、強く強く培われた愛情の根が、柔らかく光る髪の毛の一筋ごとに、行き渡っていた。
 それでも、球根はいずれ芽吹き、かつての瑞々しい硬さを失っていく定めで、成長するあたしの輪郭は、必ずしもママの好みにそぐわなかった。ママの取り出す三角定規や分度器の通りに、自分の形を変えていくのは、愉しい習慣じゃなかった。曲がる見込みのない方向に、腕尽くで関節を捩じられたら、誰だって蒼褪めて叫び出すだろう。野蛮な虐待だって罵るだろうし、周りもそんな暴力を見過ごしはしないだろう。躰にはそんなこと絶対しないのに、心には思わず遣りがちなのは、それが眼に見える痣ではないからなのか。眼に見えないものを邪険にするのは、ほんとうに簡単なことなのだ。
 小学生の頃、夏の地蔵盆の集まりで、映画を見た。なぜか、哀しい映画を見せられたのだ。それが哀しく感じられたのは、あたしのひん曲がった個性の効能だったのかな。動物の母子が、確か燕だったと思うけれど、夜の星空を渡っていくのだ。その甲高い鳴き声が耳に染み込んで、油のように取れなくなった。脱脂綿のような幼心に、鳴き交わす燕のきんと澄んだ声が、ずぶずぶと染み入る。無性に泣けてきて、やがて泣いているうちに怖くなった。渡り鳥になったら、あたしは置き去りにされないようにもっと、気を配らなきゃならない。だだっ広い大海原の夜更けに、一人で方向を間違えずに羽搏き続ける自信なんてないもの。
 漢字を覚えてから、秋南って変な名前だと思うようになった。仮名で書いているうちは、懐かなかった違和を、例えば書道の時間に小筆をへたくそに握りながら、あたしは沁々と感じた。秋の南って、何だ、そりゃって。他の子たちの名前は、もっと素敵で可愛らしく思えて、小さな嫉妬の熾火が雨の日も晴れの日も、燻ることを止めなかった。筆を水道で濯ぎながら、あたしはママのことを考えた。あたしが未だお腹の中にいた頃の、丸々と肥えた、豚のような女。
 その腹のなかから転がり出た、痩せた猿のように皺だらけのあたしが、こんな風に大きくなって、色々と余計なことを考えるようになるのは、当たり前と言えば当たり前だけど、面倒な話だ。生まれたばかりの頃、あたしは泣いたり笑ったりしているだけで、それ以上の何か、複雑に絡まって訳の分からなくなった何かを欲しがったりもせずに、夢中で生きていた筈だ。その単純明快な仕組みをいつのまにか、何処かに置き忘れて、後戻りも出来ずに、こうして膝を抱えている。
 ママは満たされていない人だと気付いたのは、たぶん中学生の頃で、あたしはバレーボールに生き甲斐のようなものを、見出した積りになっていた。飽く迄もそれは生き甲斐のようなものであって、命を燃やしている気になって、いわば青春のど真ん中に、四面を囲まれたジグソーパズルの一片のように嵌まり込んでいた。あたしのアイデンティティ、それが型に押された小麦粉のペーストの類だと、気付いているのに気付いていない振りが本気で出来るほど、当時は未だ幼くて健気だったのだ。日に焼けて汗臭い娘のユニフォームを、ママはいつも憎しみの籠った眼で一心に洗っていた。きちんと皺の伸びたそれがベランダの風に揺れていた。スポーツなんか、程ほどにしなさいよ。大人になったらどうせ止めるんだから、つまらない怪我でもしたら大ごとだわ。かちんと来るのは当たり前、だけどママは正義の味方のような顔で、小麦色の汗臭い娘を声高に、上から目線で詰って平気なのだ。寧ろママは被害者のような顔で、あたしを静かに鞭打った。
 その深く大きな、宇宙のような空白がどうして生まれたのか、ビッグバンのような事件が刻まれたのか、その所以を探り当てようにも、遠く伸びているママの過去は、闇が深くて、眼差しが届かない。抱え込まれた長大な物語を繙くには、幼いあたしじゃ語彙も想像力も足りない。中学生に、大人の抱えた腐敗した「闇」なんか見通せない。抗っても逆らっても、子供は大人に勝てない。その非対称な構図を描き直す為には、あたし自身が大人になるしか方法がない。だけど、背伸びしても、雲に指先が触れる訳じゃないし、時計の針を動かしたって、釣られて本物の時間が進む訳じゃない。どうあがいても、埋まらない溝、越えられない壁、それに突き当たって若いあたしはいつも仏頂面だった。ママが何を考えているのかは分かっても、なんでそんな風に考えるのかという理由までは、見極められないのだから、勝負は最初からついているのだ。
 満たされない心を、何かで埋め合わせようという衝動、その矛先が手近な人間に向かうのも、世の中の習慣で、ママがそれに準じたことを責めるのは酷だ。だけど、目論見通りに、あたしが人形みたいに動いてあげる義理もない。あたしはあたしで、ママの部品ではないのだ。部品に見えても、それはいつのまにか、血が通った機械に変わってしまったのだ。その変化を、ママがいつまでも受け容れないとしても、その事実まで書き換えることは出来ない。というか、あたしが許さない。
 だから抗って、失われそうになる大切な何かに取り縋って、あたしは苛酷な毎日を生きた。来る日も来る日も曖昧に霞んでいく輪郭を辛うじて、指先で縁取って確かめようとした。あたし自身の明確な形、様式、儀式、核心。ねえ、ママ。そうやって甘く話しかけられた初心な時間は、幼気な瞬間の連なりは、とっくの昔に何処かへ消えた。あたしの戦い、角笛の鳴り響く昼と夜。
 母子の戦いは、秘められた水平線の真下で繰り広げられる。部外者の参入は、厳しく阻まれる。民事不介入を唱える警察官のように、パパはあたしたちの諍いから眼を背けていた。見たくないもの、おぞましいもの、存在してはならないもの。差し出口を控えることが、全体の平和に貢献すると、滑稽にも思い込んでいたのかしら。深くなっていく傷口、引き返せなくなっていく暗闇に、パパは何の手立ても打たず、それを優しさと独り言のように呼んでいた。股が引き裂かれそうなくらい、あたしの足許のクレバスは、広々と割れて無花果のように熟れていたのに、誰も手を伸ばして支えてくれなかったのだ。その怨みを忘れるのは、水に流すのはとても難しい。今でも、ストーブに触れたばかりの愚かな指先のように、それはじりじりと生々しいのだ。
 ママは、孤独だったのだろうか。幼い娘と産院でつないだ手を、解けないほどに深く孤独だったのか。