サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「道徳的要求」に就いて

 ここ数年、主として芸能人の不倫関係に関する批判的な報道が巷間に氾濫し、渦中の当事者たちは矢衾のように猛烈な批判を浴びて、社会的な制裁を享けた。私人による制裁を禁じた近代法の理念を蹂躙するような振舞いであるが、彼らの境遇を憐憫する声は特に聞こえない。直接に関わりのない他人の色事など放置しておくのが常識的な礼節であろうと思うのだが(テレビ画面越しの「認知」など、関わりとは呼ばない)、利害関係を欠いた他人の色事だからこそ、徹底的に糾弾してやろうというのが当節の一般的な風潮であるらしい。

 或いは種々のハラスメント(harassment)に関する囂しい報道の類。無論、私はハラスメントを否定する立場である。もっと言えば、誰であっても、自分自身に向けられたハラスメントに対しては異議を唱えるのが通例であろう。だから、ハラスメントに反対する声明を匿名で発信するのは今日、最も手軽な社会的正義の発露と化している。そのような安価な正義で、社会の醜悪な現実を改革することは、実質的に不可能であるが、そういう声さえ上がらない状況よりは幾らかマシであるとも言える。

 「安手の正義」の氾濫は、市民社会における進取的で開明的な、即ち「望ましい状況」であるには違いない。北朝鮮や中国やシリアなどの「報道の自由を欠いた国々」における言論統制の蔓延に比べれば、日本の社会的情勢は相対的に健全である。尤も、それは飽く迄も相対的な差異に過ぎないし、日本の市民社会の成熟が不充分であるという事実は書き換えようがない。

 だが、そうした「市井の正義漢」が増殖することで醸成される非寛容な雰囲気は、必ずしも我々の社会を望ましい方向へ促してはいないように思う。その根源的な要因の一つは、それらの「市井の正義漢」が、声高に見知らぬ誰かの犯罪を論難し、口汚く糾弾するばかりで満足していることであろう。行動を伴わない口先だけの正義は、世の中を息苦しくするばかりで、路傍に転がっている莨の吸殻一つ拾い上げる力を持たない。他人の罪過や失錯を参考に、自分自身の行動を顧みて革めるという「行動」にも発展しないので、振り翳される厳格な正論は「無益な綺麗事」以上の次元へ昇華されることがない。こういう安直な正義は、結局のところ単なる児戯であり、表層的なポーズに過ぎないのではないか。幾ら他人の不倫を厳しく糾弾して迫害しても、当人の道徳的な水準が上昇する訳ではない。ハラスメントの加害者を寄って集って論難し罵倒しても、それが批判する主体の倫理的な成長を喚起することはない。重要なのは、自分がハラスメントの次なる加害者になりかねないという普遍的な危惧に覚醒して、心身を律することであろう。罪人を傍聴席から罵るのは、必ずしも正義の原理に相応しい振舞いではないのだ。

 要するに、当今流行の「正義」は、専ら「他者への道徳的要求」を意味しているのである。それは我が身を振り返って行ないを正し、他人の罪過に対して寛容や恩情を示すという粛々たる道徳的人物の振舞いとは対蹠的な作法である。別段、私はそういう社会的情況を声高に批判しようと考えている訳ではない。固より私は冷酷で、強情で、独善的で、享楽的で不道徳な人間であり、世人を批判する資格など有していない。だから、世間の仮借無い「道徳的要求」の劇しさに血反吐が出るのである。ハラスメントの被害者が、ハラスメントの加害者を罵倒するのは自然な人情であろう。或いは、不倫された配偶者が、不倫した配偶者を糾弾するのも至極当然の心理である。だが、第三者が容喙して、状況の抜本的な改善策を講じることもなく、単に純粋無垢の正論を振り翳すのは、傍迷惑な行動ではなかろうか。況してや、それが他者に対する社会的な「私刑」の相貌を纏うのであれば、最早「正義」の肩書にも値しないのではないか。極言すれば、それは単なる「憂さ晴らし」である。「憂さ晴らし」に「正義」の仮面を被せるのは、家庭内暴力児童虐待などにも通底する、ハラスメントの最も古典的な手法であることを、少なくとも私個人は忘れないように努めたい。