サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ニヒリズムと青春の終わり

 世の中には「アイデンティティ・クライシス」(identity crisis)という言葉がある。主には思春期から青年期に至る期間に、つまり子供から大人へと変容していく過程において生じる心理的な不安定化や危機のことを指す概念であるらしい。似たような用語として「ミッドライフ・クライシス」(midlife crisis)という言葉もあり、此方は三十代後半から四十代くらいの年齢の人々において顕れる精神的な危機を指し示すものであるらしい。

 こうした心理学的な観念(或いは、社会学的な?)は、具体的で明瞭な個物を指し示すものではないから、その定義にも自ずと可変的な振幅が備わり、議論の焦点を却って曖昧に霞ませるような弊害も伴うものだが、自分自身の人生を顧みても、確かにそうした自己同一性の危機は幾度も襲来して、出口の見えない底知れぬ煩悶や懊悩に精神を振り回され、引き摺り回されたような覚えがある。態々こんな大袈裟で硬質な用語を拝借せずとも、生きていれば奇妙な虚無感に囚われ、何事にも意欲や情熱を燃やすことが出来なくなる時期は必ず訪れるものである。そうした苦悩の深淵を幾度も踏み越え這い上がって、人間は少しずつ己の魂を錬磨していくのが世間の通例であると思う。その意味では、心理的なcrisisの襲来する時期を細々と区分する作業に重要な意義があるとは考え難い。誰でも常に自己の存在する意味や価値を喪失する危険と隣接しながら日々、暮らしているのだ。

 毎日の生活に情熱の捌け口を見出せないとか、生きていることそのものに価値を感じられないとか、自分の人生の向かっていく先に胸の躍るような理想的状態を想い描けないとか、こうした心理的な鬱屈を乱暴に要約してしまえば「虚無」或いは「ニヒリズム」(nihilism)という言葉に尽きるのではないかと思う。特に若々しく粗暴で無鉄砲な青春の季節から、社会的な責務の観念に五体を縛られた息苦しい「大人」の境遇へ向かって成熟の階梯を攀じ登っていく局面においては、自己の存在の意義を「書き換える」という作業に失敗する確率も上がるので、心が「虚無」の冷ややかな毒性に浸蝕されることも全く奇異な事態ではない。「自分の生き方は、このままで良いのだろうか?」という根深い迷妄に呑み込まれたとき、その骨が軋むような苦しみは容易く乗り超えられるものではない。

 三島由紀夫の「鏡子の家」に就いて長々と感想文を認めながら、彼もまた一つの「アイデンティティ・クライシス」の渦中に身を置いて、この大部な小説と格闘していたのではないかと不意に考えた。無論、これは聊かも私の創見ではない。「鏡子の家」執筆の当時、三島は結婚して子を生し、新居を建て、孤独な芸術家の青年から、一人前の社会人(古い言葉を用いるならば「家長」だろう)として重たい義務と責任を鉄鎖の如く引き摺って歩く生活へ移行しつつあった。少なくとも、彼の遺した日録形式のエッセイ(「裸体と衣裳」)には、そのような記述が明瞭に刻み込まれている。

 三島は「鏡子の家」において、肉薄するニヒリズムの邪悪で禍々しい毒手に対処する為の方途を、四人の青年の処世に仮託して描き、精緻な検討を加えている。新婚であった当時の三島の眼には、恐らく杉本清一郎の生き方が最善の選択肢として(それは必ずしも「最高」の選択肢ではない)映じていたのではないかと推察されるが、広く知られるように、彼は善良で道徳的な夫を、或いは社会に対する卓越した適応性を備えた配偶者としての自分を、死ぬまで演じ続けることに究極的な価値を見出さなかった。寧ろ彼の末期は、挫折した拳闘選手である深井峻吉の、作中では描かれることのなかった後半生の余白を埋めるかのような内容であった。「鏡子の家」を通じて悲劇的な行動家のヒロイズムを葬り、狡猾な俗物の仮面を被って生きることを決意した筈の三島は結局、自己の内奥に深々と食い込んだ感性的な青年の客気を、自らの最期に至るまで扼殺し続けることに失敗した。彼は杉本清一郎のように人間的な世界の「確実な破滅」を信じ切って、俗塵に塗れたニヒリストの生涯を送ることに堪えられなくなったのだろう。そして所謂「暴発」へと雪崩れ込み、華麗な文名を蹂躙するような奇矯な蛮行を演じて、世間の誹謗を一身に浴びながらも、軽業師のように身を翻して伝説的な作家となった。

 「鏡子の家」という作品は、三島由紀夫の徹底的で精密な「自己解剖」の過程で織り上げられた、極めて個人的な小説なのではないだろうか? 彼は自己に内在する総ての志向性を吟味して、それを四人の青年に託して鮮明に浮き上がらせ、その可能的な形態と経路を丹念に追究した。彼は或る意味では「青春」という特殊な季節を終結へ導き得なかったのであり、戦時下に懐いた「確実な破滅」への信仰を終生手放せずに、足早に死んでいったのである。

鏡子の家 (新潮文庫)

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