サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

丁寧に生きるということ

 この世界を生き抜いていく上で必要な心掛けというものは幾らでもあり、計え方次第でそれは無数に膨れ上がるだろう。世界には先賢の叡智に満ちた金言から、見知らぬ酔漢の喚き散らす戯言に至るまで、星屑よりも多くの貴重な教訓が氾濫している。それらの教訓から如何なる有用性を引き出すかということは、銘々の人生における重要な課題である。

 最近、改めて私が感じている人生の要諦の一つは「丁寧に生きる」ということである。この言葉だけを取り上げてみれば恐らく、胡散臭いスピリチュアルでオーガニックな思想の残骸のようなものを、人は想像するだろう。だが、私が考えているのは別に宗教的な事柄ではなく、そもそも、そんなに大仰な中身でもない。

 仕事でも私生活でも、人間は実に多くの「やるべきこと」に追い立てられ、手足を厳重に縛り上げられているもので、殊更に派手で立派な境遇に置かれていなくとも、ただ平凡に生きて、人並みに他人や社会との間に有形無形の関わりを持っているというだけで、何らかの用事や雑多な責務は雪達磨式に、或いはビッグバン的に膨張していく傾向にある。あれもこれも遂行せねばならないという遽しい窮状に陥ることは誰の身にも覚えのある話であろうし、そういうときに苛立ちや不安を懐くのも万人の通弊であろう。

 そういう局面で誰もが安易に落ち込んでしまう不毛な隘路がある。それは即ち「焦躁」であり「焦慮」である。つまり、あれもこれも一挙に成し遂げようと短絡的に考えて、強引な勢いで聊かも手段を選ばずに、脂汗を散らして最短経路を目指すのである。思慮深い吟味の時間を省いて、細部にも眼を光らせることなく、慎重という美徳を倹約して、一足飛びに万事を「完了」の範疇へ投げ入れようと企てるのである。

 そういう粗雑な生き方、働き方は、場合によっては望ましい結果を齎す場合もあるだろう。無我夢中の行動が画期的な収穫を生み出す可能性に就いて、無闇に悲観的な見解を堅持する必要はない。だが、何れにせよ、粗雑であることは様々な破綻と失錯の温床を誂えることに他ならない。冷静沈着な判断力を放擲して、断片的な知覚に右往左往し、一過性の感情に理性を曇らせ、落ち着いた重厚な威厳を路傍に脱ぎ捨てる。それが「焦慮」という悪徳の産み落とすネガティブな因子の典型的な事例である。

 換言すれば、私が「丁寧」という言葉で指し示したいと考えているものは、何事も真心を籠めて誠心誠意、といった類のストックフレーズで表象される類の、曖昧で通俗的精神主義的信仰とは無関係である。そういう曖昧な観念に脳味噌を占拠されてしまうと、不合理な丁寧さ、不合理な手間暇が無条件に正当化されて、極端に言えば「非効率であることが価値である」という奇怪な邪教の蔓延を容認しなければならなくなる。丁寧であることは、必ずしも効率を犠牲にするという意味ではない。落ち着いて熟慮することの価値を称揚する為に「非効率」という規矩を採用するのは、単に表面的で拙劣なパフォーマンスに過ぎない。熟慮は、合理性との間に深く密接な紐帯を持っている。熟慮は、盲目的な実践と行動の連鎖に風穴を穿ち、硬直した価値観、反射神経的な思考を打破するものである。

 「丁寧」の対義語としての「焦慮」には、充分に行き届いた「思索」の豊饒な果実が欠落している。焦躁に駆られて判断を下したり行動に踏み切ったりするとき、人間は考えている積りであっても、眼前の酷く限られた選択肢の中の一つに、無我夢中で縋っているだけに過ぎない。最近、サッカーのワールドカップの試合をテレビで眺めることが多いのだが、優れたチーム、優れたプレーヤーほど、より多くの豊富な選択肢を視野に入れて、沈着に行動しているように見える。一刻の猶予もない極限の判断と行為を常に迫られているサッカーのフィールドにおいてさえも、焦慮は成果の対義語にしかならないのだ。そして「丁寧であること」或いは「熟慮すること」は、必ずしも「速度」の対義語ではないという事実にも刮目すべきであろう。寧ろ充分に積み重ねられ、錬磨された思索の蓄積は、行動における迅速さを保つ重要な土壌の役目を果たすのである。現場に臨んで初めて考え付くことには限度があり、貧弱な発想が脳裡の過半を占めるのは当然の現象である。重要なのは、日常的に「熟慮」の時間を持ち、その醗酵と熟成を粘り強く促進し続けることである。それが「丁寧」という言葉の本義である。

 焦躁に駆られそうになる局面においても泰然自若たる思考力を堅持する為には、日々の「熟慮」の蓄積が決定的な役割を担う。換言すれば、日頃の思索の蓄積を欠いているからこそ、事に臨んで直ぐに判断が滞り、結果的に焦慮の悪徳へ引き摺り込まれて、悲劇的な選択肢を地雷の如く踏み締める羽目に陥るのである。無我夢中の行動だけを殊更に尊び、過剰な思考を汚濁のように捉えて批難するのは、そうした焦慮の悪徳を反省する為の思考力さえ有していないことの証左である。