サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

精神・心理・観念

恋愛の無倫理性

恋愛という極めて主観的な営為には、倫理という規範的な理念が存在しない。恋愛を道徳的な御題目によって縛ったり制限したりすることには意味がない。それは恋愛を殺戮する為に下される鉄鎚のようなものであり、恋愛の根源的な反社会性に対する掣肘である。…

「愛情」に就いて

最も原始的な愛情の形態を、動物的な交接への欲望だとするならば、最も純化され高められた愛情の形態は、神々しい「無償の愛」或いは「無私の愛」である。無論、如何なる見返りも求めない愛情という崇高な理念が、宗教的な幻想の産物に過ぎないことは、経験…

「愛」と「理解」の相剋をめぐって

人を正しく愛する為には(愛情に正しさという倫理的規範を求めるのならば、という仮定的な条件下において)、相手の考えや心情を精密に理解する為の努力を怠ってはならない、という尤もらしい命題が頻々と唱えられている。それは一見すると、疑いようのない…

「結婚」に就いて

結婚は、恋愛という感情的な熱病とは根本的に異質な、或る社会的な制度である。恋愛が常に個人の情緒だけを頼りに営まれるのに対し、結婚は飽く迄も社会的な制度の規定に拘束されている。恋愛は常に主観的な営みであって、それが傍目には如何に不毛で愚昧な…

「恋愛」に就いて

恋愛とは、簡単に要約すれば「特定の対象への執着」である。或いは「究極の依怙贔屓」と呼び換えてもいい。 日本語には「愛憎相半ばする」という表現があるが、実際、特定の対象への執着としての「恋愛」は、相手に対する肯定的な感情だけで純粋に構成されて…

「日常」に就いて

終わりのない日常生活は、退屈と虚無の代名詞である。だが、同時に日常生活は、反復される静謐な幸福の完成された形態でもある。 日常を、例えばヒロイズムと対置して二元論的に相克させる論理が、必ずしも正鵠を射ていないことは端的な事実である。無限に平…

「自立」に就いて

「自立」という言葉は当たり前のように気安く用いられて、誰にとっても耳に馴染のあるものだと思う。誰でも小さいときは親に依存し、何もかも勝手に整えられて、自分で難しい判断を積み重ねる必要も持たずに生きることが出来た。だが、大人になれば、そんな…

「勇気」に就いて

勇気を持つことは、誰にとっても簡単な行為ではない。勇敢であること、様々な艱難を懼れないこと、不安や絶望に呑み込まれないこと、あらゆる先入観を信じないこと、これらの崇高な資質は、万人によってその意義を承認されながらも、実践の現場においては様…

「個人的な辞書」に就いて

生きることは思い出すことに似ている。生きているだけで人間の頭脳には重油のように記憶が溜まり、時に醗酵し、時に蒸発する。生きることは記憶を積み重ね、その網目を複雑な紋様にまで高めていくことだ。そうやって人間は生きることに慣れ親しんでいき、一…

「孤独」に就いて

世の中には「孤独を懼れるな」という激励に満ちた言説が飛び交っている。実際、孤独そのものを懼れても無益であることは確かな事実であり、多かれ少なかれ、人間が孤独という止むを得ない状況に呑み込まれることは少しも奇態な現実ではないと言うべきだろう…

「プライド」に就いて

「自信を持てない人ほど、プライドが高くなる」というのが私の個人的な見解である。自信というのは文字通り「自分で自分を信じること」を意味するが、自分で自分を信じられない性格の人間は往々にして「他人の評価に基づいて自分自身を信頼する」という迂遠…

「決断」に就いて

決断することは常に難しく、多くの危険を孕んでいるものだ。決断するとき、私たちは綿密な熟考を経ている場合もあるし、単なる素朴な思い付きだけを足掛かりに選んでいる場合もあるが、何れにせよ、決断が困難であることには変わりがない。綿密な検討を積み…

「卑屈」に就いて

自分で自分の人生に責任を持つことを拒むと、人間は必ず「卑屈」になるか、或いは「虚勢」を張るようになる。自分で自分を信頼することが出来ないという精神的状態は、自分の人生に自分自身の判断で責任を取ろうとせず、総てを外在的事象の結果として捉えよ…

「正論」に就いて

「正論」は凶器のようなものである。無論、これは一種の極論に等しい命題だ。如何なる正しさとも無関係に、己の実存を歩み続けることは簡単ではない。如何なる正しさも肯わないままに、自分の人生を切り拓いたり、苛酷な試練に挑戦したりすることは不可能で…

「存在しないものだけが美しい」という理念 2

「存在しないものだけが美しい」という理念は、あらゆる倫理と対立する、若しくは倫理的なものと無関係に存在する命題である。存在しないものであるからこそ、美しく感じられるという精神的な構造には、絶えず死臭が染み込んでいる。 無論、あらゆる「美しさ…

「存在しないものだけが美しい」という理念 1

「存在しないものだけが美しい」という理念の形態に就いて書いておきたい。 予め注意を促しておくが、この「存在しないものだけが美しい」という命題は万人に公認され、あらゆる場面に普く該当するものではない。広範な領域において確認し得る強力な思想の様…

個人的であること、主観的であること

個人的であることと、主観的であることは、一見すると似通った言葉=観念に思われて、容易く混同されがちな傾向があるけれども、両者の意味合いは本質的に異なっているのではないかと思う。 主観的であるということは、物事を客観的に捉えられないという意味…

「本音」という言葉を、甘く見てはいけない

どうも今晩は、サラダ坊主です。 内容的には、前回の記事と繋がり合うものになりそうです。 saladboze.hatenablog.com 書くことの目的、或いは本質に関して、これまで私は、幾度か記事を認めてきました。無論、書くことの目的などという抽象的な御題目に対し…

圧倒的な現実の渦中で忘れ去られるフィクション、或いはその変質

目の前の現実が余りに苛酷で、圧倒的なものである限り、人間の宿している内なるフィクションは窒息し、息絶えてしまう。 様々な物語、様々な空想、それらは現実との間に切り拓かれた距離の効果によって生まれるのであり、従って主観と現実との不可分な近さが…

書き留められた思い出

文章を書くということの目的は、人によって様々だろうが、結局のところ、直ぐに空中へ掻き消えてしまう日常的な会話の数々とは異なり、或る出来事なり考えなりを文字に起こして紙やデータに定着させるということは、大袈裟に言えば、生きた証を樹てるという…

ナルシシズムとビジネス

ナルシシズム、つまりは自己陶酔の心的機制は、傍目には極めて醜悪なものであり、多くの場合、それは人格的均衡の破綻若しくは未熟を意味するものとして受け止められる。無論、誰しも多少なりとも自己愛という感情を持ち合わせておかなければ、生きていくこ…

「原罪」の齎す平等性の思想(「宗教的なもの」をめぐって)

私の父方の家は浄土真宗、母方は真言宗で、何れも名目的には仏教徒ということになるが、私自身は信仰心というものがほぼ皆無である。母親は宗教的な事柄には全く無関心で、自分の芸術的な趣味に興じることに専念している。一方、父親は定年退職を迎えてから…

「正しい意見」よりも「自分の意見」を語ることの倫理性

こうしてブログに投稿する記事に限らず、何らかの事物に関して私見を書き綴るとき、決して高慢に思い上がっている訳でもないのに、知らず知らず私は「自分の意見」よりも「正しい意見」を書き連ねようと試みている己に気付くことがある。無論、ブログの記事…

「才能」という異常値 或いは「適職」という不毛な幻想

先日、中上健次の「枯木灘」を無事に読了したので、新たに大岡昇平の「野火」に着手している。 saladboze.hatenablog.com saladboze.hatenablog.com 暫くの間、中上健次固有の文体のリズムに浸かっていたので、「野火」を読み始めた途端に、がらりと変わった…

顔が見えないとき、人は幾らでも「残酷」になれる

以前、ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストを背景に、日本人外交官の半生を描いた映画について記事を書いたことがある。 saladboze.hatenablog.com saladboze.hatenablog.com その中で私はユダヤ人哲学者レヴィナスの「顔」という概念について軽く触…

虚栄心の構造 私たちは自分の本当の欲望を直視することがへたくそだ

どうも御無沙汰しております、サラダ坊主です。 クリスマス商戦に忙殺されて家に帰る暇もないくらいの有様で、ブログの更新も滞っておりました。一息ついたら今度は年末年始の商戦に突入します。成人式を過ぎるころには漸く激務も一区切りとなるので、なんと…

遊離する欲望 わたしたちは「実体のないもの」を愛する

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 以前、私は「物質的幸福」に対する倦怠や不信が蔓延する時代においては、「精神的幸福」とでも称すべき「形のない対象」への欲望が強まる風潮があるというような意味のことを、このブログの記事に書きました。 saladboze…

「胎児」から「対自」へ / 「未生」の脱却について

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 今夜も抽象的なタイトルの記事を書きます。 以前、こういうエントリーをアップしたことがあります。 saladboze.hatenablog.com この記事の中で私は、人間の特質として「記憶」という機能が爆発的な進化を遂げたこと、記…

「正義」と「愛情」は相容れない

皆さんは「喧嘩」ってしたことありますか? 勿論、喧嘩にも様々なパターンがあります。例えば友人との喧嘩、親子喧嘩、客と店員の喧嘩、上司と部下の喧嘩、赤の他人との喧嘩、恋人や夫婦間の喧嘩。 その中でも私が特に取り上げたいのは「恋人同士の喧嘩」と…

「恋愛」と「結婚」の境界線

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 先日のエントリーでも少し触れましたが、私には離婚経験があります。今時、離婚なんて少しも珍しくない話となりましたが、その決断に当たっては親から強い反対を受けました。相手の方が私に対する愛情を失ったと明言した…