サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「存在しないものだけが美しい」という理念 2

 「存在しないものだけが美しい」という理念は、あらゆる倫理と対立する、若しくは倫理的なものと無関係に存在する命題である。存在しないものであるからこそ、美しく感じられるという精神的な構造には、絶えず死臭が染み込んでいる。

 無論、あらゆる「美しさ」が必ず倫理的な価値観に背反するなどと暴論を吐きたい訳ではない。重要なのは「存在しないものだけが美しい」と感じる精神的な機制が存在すること、そうした特異な(同時に一般的でもある)精神的機制の特質に就いて考察を重ねることである。

 存在しないものだけを特別に美しく感じる種類の精神的機制が、眼の前の具体的な「存在」に対する嫌悪や絶望から分泌されていることは言うまでもない。三島由紀夫の「金閣寺」の場合には、吃音によって外界から隔てられた「私」の内面において、外在的な「現実」は、どうしようもなく接続の困難な領域である。人が具体的且つ外在的な現実に対する己の「無力」を切実に痛感するとき、それが外界への積極的な介入に帰結するか、それとも内界への退却と逼塞に帰結するかは、各人の精神的条件に応じて異なるのが普通である。

 現実との積極的な交渉が困難であるような個人にとって、その困難の理由が如何なる条件に基づいているかということに関わりなく、秘められた欲望が空想的な領域へ接近していくのは特殊な現象ではない。金閣寺への放火は特異な事件であろうが、そのような事件の勃発を準備した個人の内的な機制は少しも特異ではない。「現実の金閣」よりも「心象の金閣」を美しいと感じ、その精神的な現象に固着する人間の生存の形式は、私たちの暮らす社会では寧ろ凡庸なほどに有り触れている。

 例えば「欣求浄土・厭離穢土」という言葉に象徴される仏教的な救済の観念は、現実に対する蔑視を含むと同時に「存在しないものへの強固な憧憬」によって裏打ちされていると言える。キリスト教イスラム教も含めて、死後の世界に関する種々の想念を有する宗教的な体系は、こうした「存在しないものの美しさ」に対する強烈な欲望によって駆動し、成立しているのである。言い換えれば、それは「彼岸に対する欲望」であり、その内実を客観的に眺めるならば「死に対する欲望」ということになるだろう。

 死ぬことが齎す幸福な幻想、それが宗教に限らず、人間の精神の様々な局面において登場する根強い欲望の形式であることは論を俟たない。「金閣寺」の語り手は「彼岸」の象徴である金閣を焼き亡ぼすことによって「生きること」への倫理的な回帰を試みた。新海誠監督の「君の名は。」においては、それは瀧と三葉の現実における邂逅によって置き換えられる。若しも瀧と三葉の相互的な恋情が「存在しないものへの欲望」に留まり、固執し続けるのであれば、彼らはあのような形で再会するより、黄昏の一瞬の邂逅を追憶の頂点に据えた上で、永遠に「出逢わない二人」として生き続けるべきであった。しかし、彼らは現実的な邂逅を通じて「存在しないものへの欲望」を「存在するものへの欲望」に、半ば強制的に転換させられることになる。そこから始まる「結婚」のフェーズは、彼らに「現実への蔑視」を棄却することを命じるに違いない。どんなに醜悪な現実も受け容れ、決して「邂逅することの許されない二人」という悲劇的な関係性に安住することなく生き続けること、それは虚無的な美しさの象徴としての「金閣寺」を焼き払うことと、倫理的な意味においては等価であると私は思う。

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