サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「自立」に就いて

 「自立」という言葉は当たり前のように気安く用いられて、誰にとっても耳に馴染のあるものだと思う。誰でも小さいときは親に依存し、何もかも勝手に整えられて、自分で難しい判断を積み重ねる必要も持たずに生きることが出来た。だが、大人になれば、そんな安楽な御身分とは切り離されて生きることになる。或いは、そんな安楽な御身分を捨て去らない限り、人は誰も「大人」としての成熟を享受することが出来ない。尤も、そんな困難を抱え込むくらいならば、いっそ「子供」のままで生きた方が幸福だと考える人も少なくない。それが倫理的な観点から眺めるならば、疑いようのない「堕落」であり「怠慢」であるとしても、それを望みたがる個人の心情を、第三者が自在に制御することは出来ない。

 誰もが簡単に、平気な顔をして「自立」という言葉を用いるが、その厳格な定義に就いて、どれだけ思考力を傾注しているか、それは疑問である。無論、自分のことを棚上げにする積りはない。私も極めて依存的な性格の人間であったし、今も依存的な性質は、完全には払拭されていない。理想と現実との間に広がる距離を、性急に縮めようとしても、その焦慮は不毛な自己欺瞞を産み落とすだけである。だから、私は己の依存的な部分に就いて、それを既に克服したなどと言い張る積りはない。克服したいという願望と、克服したという事実的判断を混同してはならない。そんなことは当然だと人は言うかも知れない。けれど、私たちの御都合主義に汚染された脳味噌は極めて容易に、両者の混同という愚かしい暴挙に傾斜してしまう習慣を堅持しているのだ。

 自立という観念の裏側には、依存という観念が潜んでいる。依存的な人間は、自分自身の決断や思考を信用していない。彼らは、自分の意見に重要な価値を認めることに慣れていない。それが下らぬ謬見である虞を絶えず警戒して、他者によって己の意見を批判されることに絶大な恐怖心を懐いている。それは一見すると、正当な「謙虚さ」であるように見えるし、場合によっては美徳として評価されるかも知れない。だが、それこそが「依存」という観念に絶えず随伴する厄介な罠なのだ。

 過ちを犯してはならない、という原則は、一見すると健全な規矩のように感じられるが、過ちに対する極端な恐怖心は、過ちを犯してはならないという正義とは本質的に無関係な感情である。それは何よりも先ず、自己防衛の為の感情であり、煎じ詰めれば矮小なナルシシズムに過ぎない。過ちを犯してはならないという命題が絶対化されたとき、人間は一切の行動や決断を峻拒することで、己の正当性を保持しようと図る。何もしなければ、失錯を犯す心配も生じないという、極めて退嬰的で保守的な論理が誕生する訳である。それはペーパードライバーが、長年の無事故無違反の実績を誇示するような滑稽さと無力さを孕んでいる。路上に出ないドライバーが事故を起こさないのは、美徳ではない。単なる物理的な事実、非常に退屈で凡庸な事実に過ぎない。

 だが、こうした保守的な論理は極めて強力に、人間の心を掌握することが出来る。行動しなければ事故に遭うこともないという尤もらしい論理に屈服し、何も意見を述べなければ批判されることもないという度し難い退行に傾く人間は少しも珍しくない。こうした実存の形式は、まさしく「依存」の本質的な要素である。言い換えれば、何も選ばなければ、外れ籤を引くことはないという極端な保守性が、依存的人間の精神を領する根本的な特徴なのである。外れ籤を引かない人間は、当たり籤からも永劫に見放される。それでも構わないから、外れ籤を引かない人生を歩みたいという人間は、絶えず何かに依存することで、自分以外の何かに自分の人生を委ねることによって、そうした法外な野心を実現に導こうと試みる。

 自立は、そうした依存的人間の保守的な論理との間に顕著な対照を成す。自立するということは、自らの責任に基づいて物事を選択し、決断し、行動することに重要な意義を見出す。勇敢な決断を試みることは、彼らにとっては倫理的な規範である。自立的な人間にとって、自分の人生は、自分自身の決断の累積的な結果である。だが、依存的な人間にとって、自分の人生というものは常に、他人の意見と命令によって構成された寄木細工のようなものである。

 しかも依存的な人間は、他者に総ての責任を委ねておきながら、その結果に不満を懐き、他者を攻撃することを辞さない。言い換えれば、依存的であるということは、他責的であるということと同義である。問題の原因を他者に見出すことは、問題の解決を他者に委ねていることと同じである。本来ならば、他者が頼りにならないのであれば、自分自身で解決の糸口を模索するのが正しい道筋である筈だ。だが、依存的な人間は、自分の思索や行動によって事態を打開する能力も経験も有していないので、正しい道筋に進むことが出来ない。これは幼児的な現象である。

 依存的であり、他責的であるという特質は、極めて幼児的なものである。無論、幼児がこうした特性を有するのは生物学的な問題であるから、少しも非難される謂れはない。だが、肉体的な年齢を重ね、充分に成熟しているべき人間であっても、こうした幼児性の残滓を色濃く保持している者は珍しくない。空腹のとき、ミルクを欲して泣き叫ぶ赤児を見て、努力が足りないと叱る大人はいないだろう。だが、同じような行為を、生物学的な意味での成人が演じているのを見れば、誰でも嫌悪と侮蔑の感情を懐かずにはいられないだろう。幼児性からの脱却は、人間的成長における必須の過程である。だが、誰もが自動的に幼児性からの脱却を成し遂げ得る訳ではない。そもそも、自立とは何か、大人になるとは如何なる事態を意味するのか、それを真剣に考えたことのない人間が幾らでも地上に存在するという事実から、私たちは出発しなければならない。

 一部の人間は何故、自立を望むのか? それは自立が、他者による支配からの解放を齎すからである。他者に依存することは、自らの存在を奴隷として捧げることを意味する。そして、奴隷には「奴隷の幸福」と称すべき安閑たる境涯がある。従順な奴隷も、傲慢な奴隷も、奴隷であることに甘んじている限り、本質的な成長を獲得することは出来ない。隷属は、人間の尊厳を破壊し、生きる歓びを歪曲する。そして隷属は、あらゆる人間的な愛情に対する致命的な暴力として機能するのだ。