Cahier(師走・宿命・軍曹)
*年の瀬で、何かと忙しい。師走ともなれば、小売業に携わる人間は皆、来る日も来る日もフロアを駆け回ることになる。靴紐が千切れるくらいに忙殺されて駆け回るのは、何も僧侶だけとは限らないのである。
正月休みを心待ちにして騒めいている世間の空気を、私たちは違った角度から捉える。年末年始を家族や友人と共にゆっくり過ごす、という感覚が、私の内部には既に存在していない。我々にとっては、年末年始こそ最高の書き入れ時なのである。
知らぬ間に気忙しくなっているのか、読書が一向に捗らなくて困っている。いや、別に読書が進捗しないくらいのことで、生活が滞る訳でも、誰かに迷惑を掛ける訳でもない。ただ、普段と違うリズムの渦中に、いま自分が呑み込まれつつあることの警笛を聴き取っているだけの話だ。十二月は、戦争の季節である。私は日々、京成電車に揺られて戦場へ出陣するのである。札束が飛び交う戦場で、ニコニコと愛想笑いを大盤振る舞いし、スタッフを叱咤して売上を盗賊のように稼ぐのである。
そういう生活に、昨秋の私は疑問を懐いて、このままではいけない、別の世界へ飛び込んで、己の宿命を書き換えるのならば今しかないと焦躁に魂を焼かれていた。全く異質な業種へ転身し、もう少し真っ当な生活を送りたい、その方が家族の為だと真剣に考えていたのである。だが、十余年の歳月と習慣が培った精神性は、そう簡単には折伏し難い。結局は、売り場に立って働く生活に、何かしらの矜りを懐いている自分を発見して、捨て切れぬ愛着に絆されて、私は転職を断念した。そうやって肚を括ってしまえば、眼前には札束と食品の戦場が広がるばかりで、私はそれなりに蓄積してきた知識と経験を自動小銃のように携えて、再び軍曹を思わせる表情で一歩を踏み出すこととなった。保守的な考え方に囚われて、挑戦を諦めて怖気付いたに過ぎないと、世人は嘲るだろうか。だが、世人の嘲弄を自分の人生の物差しとして採用するのは、馬鹿げた茶番である。私は改めて考え直し、自分自身に言い聞かせる。自分のケツを拭えるのは、自分の手だけだ。他人の芝生が蒼く萌えて見えるからと言って、過去の歳月を一刀両断に否定するのは正しい心掛ではない、と。
自分で選んだ途を信じる。それは生きていく上で最も基本的な道徳で、それ以外に矜りを持つ術はない。自尊心を欠いた人間には、奴隷の幸福が餌のように投げ与えられるだけである。正月休みなど糞喰らえだと声高に笑うのは、如何にも痛ましい虚勢の一環に過ぎないと感じられるかも知れないが、それこそが我々の矜持であり、尊厳なのである。我々がいなければ、世間の休日は頗る退屈で無味乾燥な時間の堆積となるだろう。