Cahier(小売業渡世・心筋梗塞)
*六日連続の勤務が今日で終わり、漸く人心地がついている。六日連続くらいで大袈裟に騒ぎ立てる積りもないが、立ちっ放しの仕事なので、躰の節々が何となく重たくなってくる。特に「通し」と言われる、朝から晩までのシフトで入る日が続くと、睡眠時間の確保にも難儀するので余計に辛い。昨日は閉店の鐘と共に、部下に発注などの残った業務を任せて早めに帰宅した。それでも家に着いたのは午後九時過ぎだから、公務員的なワークスタイルを営んでいる人から眺めれば、少しも早くないということになるかも知れない。
昨秋、転職を思い立って彼是と悩んだり行動したりしていた頃は、そういう生活に嫌気が差していた。我々の業界は、世間が休みを謳歌している時こそ、我武者羅に働かねばならない因果な渡世である。二十歳の時から十年と少し、ずっと同じ業界に脳天まで浸り続けて、そういう生活に不満や嫌悪を覚えることがあるのは、止むを得ない仕儀であろう。無論、公務員にも仕事の苦労や悩みは数え切れぬほどあるだろうし、世の中にしんどくない仕事など一つもないと言うことは出来る。だが、こうやって小売業の現場で働き続けてきて、絶えず数字に尻を叩かれて、自らの生業の特殊性みたいなものを意識すると、正月や盆にゆっくり休めるのなら結構な話じゃないかと、詮無い愚痴の一つも零したくなるのは人情である。
そうした束の間の迷いというか、漠然とした憤懣のようなものが昨秋、殊更に迫り上がった背景には、やはり「数字」という魔物が深く関与していたに違いない。小売業の現場に立ち、陣頭指揮を執って掲げられた目標=予算に向かって奮闘する日々は、常に悪魔のような「数字」との格闘の連続である。尤も、これは決して小売業に限った話ではないし、売上という指標でなくとも、何らかの成績を表す「数字」に縛られ、追い立てられるのは、何処の業種でも職種でも変わらぬ資本主義の宿命であると言えるだろう。何もかもが収益確保のビジネスとして再編成されてしまう時代において、如何なる「数字」とも無縁でいられる人は皆無に等しい筈である。
だが、一概に「数字」と言っても、その性質が多様であることは確かな事実で、評価の基準となる期間も様々である。不動産の営業と食品の小売では、同じ「売上」であっても、その性質は随分異なる。我々の属する世界では、一分ごとに刻々と売上が積み重なり、一時間ごとに前年の実績との差異が明示される。一日の営業を終えるごとに、その日の勝敗が残酷なまでに明示される。殆どアスリートの世界に等しい構造が横たわっているのである。結果が直ぐに開示されるという意味では、分かり易い達成感を味わえるという利点もあるが、逆に言えば一分単位での緊張を絶えず強いられるということでもある。しかも、我々はずっと立ちっ放しで、着席した状態での商談というものを、少なくとも店頭で経験することは有り得ない。絶えず動き回っているし、絶えず声を出している。毎日、数百人の顧客と束の間の逢瀬を重ね続ける。その精神的負荷も、慣れない間は苛酷に感じられるだろう。更に言えば、我々の書き入れ時は概ね夕刻であり、世間一般の人々が仕事を終えて家路を急ぐときや、家でのんびりと夕飯を食べているときに、忙しさは最高潮を迎える。仕事が終わる時間も遅い。百貨店配属の私は未だ恵まれている方で、二十一時くらいには退勤出来るが、エキナカ(駅の改札内にある商業施設の俗称)の店舗であれば、閉店の段階で既に二十三時という場合もある。そこから閉店業務を済ませて帰宅すれば、確実に日付を跨ぐことになる。飲食業の場合はもっと悲惨で、百貨店のレストランでも物販部門よりは確実に閉店が遅いし、居酒屋やファミレスならば二十四時間営業も有り得る。コンビニの利便性の恩恵に浴している私が言えた義理ではないが、二十四時間営業というのは人間の精神を深く毀損する暴力的なシステムである。非人間的であると言い換えてもいい。時間で区切られるアルバイトなら未だ恵まれている。仮にその店舗の責任者であるならば、二十四時間ずっと、自分が責任を負うべきシステムが駆動し続けるということになる。その客観的で素朴な事実が、人間の精神に及ぼす負の影響の夥しさは計り知れない。
だが、私は何も不満ばかりを持っている訳ではなく、同時に矜りも併せ持っている。サービス業は余り人気のない業種であるが、我々の存在を捨象して、現代の生活を物語ることは出来ない。その意味では、立派な仕事である。また、絶えず結果と向き合い続けるアスリート的な労務条件も、私の矜りと歓びを構成する重要なファクターである。チームとして、様々な立場や来歴を持つ人々(高校生から定年再雇用者に至るまで、小売のアルバイトの「生物多様性」は図抜けている)と力を合わせて共通の目標に立ち向かい、色々な感情を分かち合える職場というのは、業種によっては有り得ない代物ではないだろうか。
*今日、新入社員の女の子の父親が心筋梗塞で倒れ、即入院、即手術という危険な状況を迎えた。その子は休憩中に母親からの連絡で父親の危機を知り、ショックの余り泣き出したようだ。彼女と一緒に休憩へ出た別の社員が事情を報せに売場へ戻ってきた。直ぐに帰らせるように指示を出すと、やがて本人が亡霊のような表情で、両眼を紅く泣き腫らした状態で現れた。御客様の前なので、直ぐにバックヤードへ連れて行き、事情を確認した。本人は突然の事態に気が動転していて、涙を堪えるだけで必死の様子だった。特段、持病がある訳でもなく、本当に急な出来事であったらしい。とりあえず、母親に電話するように命じ、病院の名前と住所を確認させ、手近な紙片に書き留めた。制服から私服に着替え終わった彼女をタクシープールへ案内し、現金を持っていないと言うので千円札に崩した一万円を貸してやり、タクシーの運転手に病院の住所を書いたメモを渡した。
夜、電話を掛けて状況を確認したときには、彼女の声は随分落ち着きを取り戻していた。手術は済んだが、未だ予断を許さない状況で、父親は集中治療室から出られないらしい。発見が早く、昏睡状態にも陥っていないことが、せめてもの慰めである。
こういう事態は、誰にでも起こり得る。私の父親は、彼女の父親よりも十歳くらい年嵩で、高血圧の薬を処方されている。同じような悲劇の報せがいつ何時、私の携帯電話を揺さ振らないとも限らない。他愛のない日常の随所に、思わぬ不幸と惨事が忌まわしい大口を開いて待ち構えているという現世の真理は、日々テレビやネットを賑わせる大小様々の「事件」の報道によっても立証されている。そう考えると、やはり、この類の出来事に対して「我関せず」の冷淡な振舞いで関わるのは正しい行ないではないと思う。勿論、病気に対して有効で具体的な方策を示せるのは医者だけであり、家族でさえ、附き添う以上のことは患者に何もしてやれないのが世間の通例である。第三者が差出口を叩くのは破廉恥な振舞いであるだろう。だが、相手の話に耳を傾けて、きちんと相槌を打ってやるだけでも、身軽になっていく何かが確かに存在しているのではないか。それは私自身の過去の経験を顧みても、即座に断言し得る人生の「要諦」である。苦悩は、ただ共有されるだけで、圧倒的にその重量を軽減されるものである。その共有が、苦悩を解決する建設的な効果を持つことは実に稀だが、つまり「共有」そのものに現実を変革する為の力など少しも備わっていないことが普通であるが、それでも「共有」の精神的価値を侮るべきではない。苦悩と二人きりで互いを見凝め合うのは、人間の精神にとって最も危険な「暴挙」の一つである。