サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

遊離する欲望 わたしたちは「実体のないもの」を愛する

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 以前、私は「物質的幸福」に対する倦怠や不信が蔓延する時代においては、「精神的幸福」とでも称すべき「形のない対象」への欲望が強まる風潮があるというような意味のことを、このブログの記事に書きました。

saladboze.hatenablog.com

  「モノ」から「コト」への移行というのは一回きりの現象でもなければ、一方通行の不可逆的な経路でもなくて、時代の要請に応じて何度も振り子のように繰り返される、人間の集合的な運動であると思います。そして私たちは「モノ」を求めるときでも「コト」を求めるときであっても、対象そのものを欲するのではなく、その対象が間接的=代理的に表している「意味」を欲しているのだと言えると思います。そういった意味では「形のあるもの」「形のないもの」という二分法は必ずしも欲望の解釈において、本質的な区分とは言えないということになります。

 かつて心理学者の岸田秀氏は、人間の生存の様態を規定して「本能の壊れた動物」という言い方を選びました。本能というのは恐らく、或る外在的な事象に逢着したときに自動的に選択される反応の総体を指す言葉であると思いますが、人間に関しては、この「本能」という自動的反応の回路が精密に機能していない、ということを、氏は数々の著作を通じて「人間の条件」のように繰り返し語っていました。何故本能が壊れてしまったかと言えば、ここからは私の我流の解釈となりますが、人間が「意味」というメカニズムを抱え込むようになってしまったからではないかと思います。

 厳密に言えば、人間の本能が壊れてしまっているのは、人間の精神的諸機能が、その一般的な発達の過程を通じて、即自的な形態から対自的な形態へと構造を変質させるからではないか、というのが私の個人的な仮説です。下記のエントリーでも、似たような意味合いのことを書かせていただきました。

saladboze.hatenablog.com

  言い換えれば、この「対自的意識」という存在の様態は、「自己」と「世界」とが未分化であるようなカオスの状態(荘子風に言えば「渾沌」ですね)を離れ、自己が世界を対象的に把握する力を手に入れたことを意味しています。動物的な、無反省な状態の知覚から、その知覚を通じて得られた認識の内容を対象的に捉え直す「意識」の発生が、私たち人間の独特な存在の形式を支える基礎的な要件として働いているのです。

 外在的な対象を感覚を通じて把握する「一次的認識」に対して、得られた複数の一次的認識を対象的に捉え直す「意識」は、人間の精神的機能の爆発的な発展を齎しました。記憶を「想起する」機能の発達によって、複数のイメージを取り扱えるようになった私たちの意識は、イメージとイメージとの間に何らかの「関係性」を読み込むことで、所謂「思考」という営為を発明しました。この「関係性」こそが「意味」の始原的な形態であるという訳です。

 この「意味」に基づいた「意識」の機能が発達するのに伴い、対象に接触した際に自動的に選択され、表出される「本能」という機能は、私たちの内部で衰弱の一途を辿りました。複数のイメージを自在に結びつけ得る意識の「自由度」は不可避的に「本能」の「一義的な即応性」と反比例する能力だからです。

 無論、そのような本能的反応は人間の生活の現場から完全に死滅した訳ではなく、所謂「無意識」の裾野というのは非常に広大で、意識というのは「氷山の一角」のようなものに過ぎないという見方もあります。しかし、それが事実だとしても、人間という種族を他の生物から区別するに当たって最も際立った明瞭な指標となり得るのが、イメージの連鎖を処理する「意味=思索」の機能であることは動かし難い真理なのではないでしょうか。

 別の観点から、この問題を扱ってみましょう。記憶された内容を想起する能力というのは、時間という観念の発生と不可分の関係にあります。記憶された内容を「後から」思い浮かべるという営為は必然的に時間という帯域を前提として成立するものだからです。その継起の延長線上に「未来」という仮想的な領域が想定されるのも、基本的には「記憶の想起」というプロセスの敷衍に他ならないでしょう。この「記憶された内容」と「想起された内容」との間に介在する不可避的な「ズレ」が、私たちを「現在」という無時間的な動物性から解放し、思索の可能性を切り拓くのです。

 意味というメカニズムは常に、こうした時間的な帯域を必要としており、その「ズレ」がないところに「意味」という仕組みが成り立つ余地はありません。意味というのは常に「それ以外のもの」を暗示するものとして構成されている訳ですから、そこには必ず原理的な「差異」が潜んでいます。精確な適用であるかは心許ないのですが、デリダ風に言えばそれは「差延」ということになるのかもしれません。その差延というのは「無時間的現在」からの逸脱ということであり、時間の発生ということでもあります。

 言い換えれば、記憶された内容を「過去の出来事」として捉えるのはそれ自体が既に「時間という意味」による連結の結果であるということです。「無時間的現在」に属する限り、意識は(そのとき、主体は意識という持続性を持ち得ないのですが)過去も未来もなく、現在という観念すら持たない状態に幽閉されており、そこでは常に「瞬間の連続」だけがあります。いや、厳密には「断続」というべきでしょう。「時間」という意味によって媒介されない限り、私たちは「連続性」というものを感受することが出来ないのですから。無時間的現在においては、過去も未来も存在しないために、瞬間的な出来事が一切の脈絡から隔てられ、切断された状態で無限に連なっていくことになります。そこには「意味」の発生する余地などありません。「現在」に幽閉されている限り、私たちは「同一性」の牢獄に監禁されているということになるからです。

 私たちの「意識=意味」の発生は、そのような無時間的現在における「同一性」の破綻から始まると言ってよいでしょう。それが破れる契機となるのはやはり「記憶」の機能だと思いますが、厳密には記憶そのものではなく、それを「想起」という形で対象化し得るということが重要なのです。「想起する」ということは、それ自体が既に「意識」の働きなのですから、意味が発生するためには「意識」が先ず成立していなければならないという順序になります。そして「意識」は「認識を認識する」ということであり、「自己」と「自己でないもの」を分化させる作用です。この根源的な分化、いわば「自己言及的な認識」こそが、人間的思考の究極的な濫觴として私たちの歴史に与えられているのです。

 この「自己言及的認識」即ち「意識」の成立によって、私たちはあらゆるものから「別の何か」を「意味」として抽出する機能を獲得し、そのことが私たちの「人間性」を形成する根源的な号砲となった訳です。「意識」は「意味」を生み出し、「意味」は「思索」を可能にします。「思索」は様々な「意味」の複雑な体系として構築され、私たちの意識はそうした「意味の牙城」に良くも悪くも取り込まれ、併合されています。

 この状態が亢進すると、私たちの意識は「意味によって汚染された状態」に到達することになります。「意味」というのは本質的に「別の何か」「不在の何か」を指し示すシグナルとして現れる訳ですから、「意味」そのものは「実体」を欠いています。「実体」を欠いた「意味」に汚染された私たちの意識は、絶えず「実体を欠いた対象」に向けられ、働きかけるようになります。

 例えば性欲は本来、生物を生殖行為に駆り立てるための身体的=官能的な「機構」に過ぎませんが、実際に私たちが性欲を抱く対象は実に多彩であり、性別の垣根さえ、場合によっては問題ではなくなってしまいます。率直に言って、私たち人間は「生殖に帰結しない性欲」の発露にこそ、最も熱心になりつつあるのです。様々なポルノグラフィーを徴すれば明らかなように、人間の性欲は幾らでも恣意的な対象と結合することが可能であり、同性であろうと異性であろうと、そもそも人間であろうとなかろうと、単なる二次元の平面的なイメージであろうと一向に構わず、雑食的に発情することさえも容易なのです。

 めちゃくちゃ抽象的な記事になってしまいました。

 例によって特段の結論はございません。

 真夜中のサラダ坊主でした!