「原罪」の齎す平等性の思想(「宗教的なもの」をめぐって)
私の父方の家は浄土真宗、母方は真言宗で、何れも名目的には仏教徒ということになるが、私自身は信仰心というものがほぼ皆無である。母親は宗教的な事柄には全く無関心で、自分の芸術的な趣味に興じることに専念している。一方、父親は定年退職を迎えてからキリスト教系の新興宗教に入れあげて、付箋を用いた聖書の繙読に余念がない。浄土真宗の信仰など、今の父親にとっては「異端」或いは「邪教」以外の何物でもないだろう。
私自身、十代の頃には禅宗に興味を持ったこともあったが、三十路へ差し掛かった今では紛れもない俗人そのもので、丸刈りの頭だけ見れば坊主臭いが、日々の暮らしは妻帯肉食の泥濘に度し難く埋没している。こういう人間にとって、仏教に限らず様々な宗教的慣習と伝統は果てしなく縁遠い幻影のようなものでしかない。誰かの葬儀に参列すれば数珠も使うし焼香もするが、それは私の内なる敬虔な信仰心の表れではなく、単に社会的な慣習に束の間の従属を誓っているだけの話である。
だが宗教という巨大な体系が、どれほど私自身の日常的な生活において僅かな地歩しか占めていないとしても、世界史的に考えれば、その壮麗な観念が人類に与えてきた影響力の大きさは計り知れないものであると言える。古い小説を読んでいても、随所に宗教的な慣習を見出すことが可能であるのは、宗教が人類の歴史に深く食い入り、私たちの社会の様式を事細かに規定してきたことの証左であろう。例えば欧米の芸術から、キリスト教の徴候を抽出するのは極めて容易な作業である。彼らにとってキリスト教の伝統的な慣習は、日常の生活と不可分の関係を有するものであり、彼らの俗塵に塗れた生涯は常に聖書の崇高な教えと混じり合っている。
それほど宗教的な伝統が日常生活に深く食い入っているのは、何らかの歴史的な必然性に導かれた結果である訳だが、そこには宗教的なものだけが持ち得る強烈な価値観の転換が影響している。咬み砕いて言えば、キリスト教には「原罪」という観念があり、それは人類そのものが背負い込んだ本質的で不可避的な「罪悪」という具合に解釈されている。キリスト教において、この「原罪」という観念は極めて重要な意味を持つ。何故なら、それはどんな人間も「罪深き存在」であるという公理を設定することによって、俗世における様々な階級的差別を無効化する破壊的な力を含んだ観念であるからだ。
このような考え方は、生きることの本質を「苦」の一字に見出した釈迦の思想に対しても類縁性を有している。「原罪」も「苦諦」も、人間という存在が産まれながらにして不可避的に抱え込んでしまう「不幸」の絶対性を強調し、そのことによって現世的な地上の幸福を表層的な幻影として読み替えるという点で共通している。これらは、地上の様々な政治的権力による社会への圧迫や暴政を阻害するという点で、革命的な意義を有していると言える。どんな偉そうな君主も、傲慢な貴族も、凡庸な庶民も、卑しい下層の賤民も「原罪」の呪縛からは逃れられないと看做すことは、「身分」の思想に強烈な鉄槌を下すことになるのである。
だが、そのような本質的平等化の役割を担った「教会」という組織も、それが地上に存在する限り、何らかの組織化=権威化の系譜を免かれることは出来なかった。総ての人間を「罪人」に還元することで一切の社会的な優越性を破壊する効果を発揮した「教会」はやがて、それ自体が優劣の原理に基づいた樹状の組織として権勢を揮うようになる。その矛盾は、原罪という観念の度し難い抽象性に由来している。それは誰にでも容易く理解し得るような、具体的な考想ではない。己を罪深き存在として積極的に認めることが、どんな人間にとっても容易な振舞いである筈がないのだ。それは恐らく、何らかの差し迫った事情に衝き動かされて、人工的に構築され、創出された戦闘的な「思想」の結晶である。迫害された人々、窮迫を強いられる人々にとって、誰もが罪悪を背負っているという考想は、社会的な上層に位置する権威者たちへの敵対的な情念を含有している。
宗教というものが世俗の価値観に対立するものであること、その真理は言い換えれば、世俗の価値観に背反しないような宗教的体系は、宗教としての本質に叛いているということでもある。昔から日本には「無縁」という言葉があるが、この不吉な印象を孕んだ単語はまさしく、宗教的なものの根源的な役割を簡潔に言い当てている。宗教は、世俗の社会において頑強に存在し、個人を呪縛し続ける「因縁」を切断し、諸々の社会的な制約を一挙に破砕するような機能を有しているのであり、だからこそ宗教は常に社会から疎外され、迫害される哀れな人々の心に寄り添ってきたのである。
例えば柄谷行人は「言葉と悲劇」(講談社学術文庫)という表題の講演録の中で、共同体に根差した宗教と、キリスト教やイスラム教のような「世界宗教」とを厳密に区別している。この区別が重要な意味を持つのは、共同体に附属するようなタイプの宗教が、個人を社会的な制約から切り離して庇護する「救済」の役割と全く対蹠的な規範であることに、私たちの注意を喚起するからである。共同体の形成と同期する形で発展し、その共同体の成員に対する道徳的な「規矩」として働くようなタイプの土俗的信仰は、世界宗教が備えている「無縁性」とは根本的に相容れないものであり、徹底して「俗世」の論理に搦め捕られていると言い得る。共同体的な宗教は、世俗の規範を否定するどころか寧ろ積極的に強化する方向へ作用する。それは「無縁」の存在を許さず、あらゆるものを社会的な「因縁」の閉域へ引き込み、規制してしまうのである。それは宗教的な救済とは根本的に背反する原理によって支えられており、従って宗教的なものの本質を、表層的な「神々」のイメージに求めるのは明確な謬見である。
だが、そのような宗教の本質的機能は、私たちが普通に暮らし、馴染んでいる俗世間の「因縁」と相互的に補完し合うような役割を担っているのであり、宗教そのものを絶対的な真理として祀り上げるのは危険な発想であることも附言しておくべきだろう。宗教の「無縁性」に対する希求が崇高な意義を獲得するのは、それが絶えず組織的な権力へ昇華することを妨げられながら、俗世間と対峙するという極めて緊張した関係性を保持する場合に限られているのであり、一旦その緊張を失ってしまえば、宗教も一つの異様な「俗世」を形成することになってしまうのだ。その意味で、宗教的な体系は特定の場所に所属することが不可能であるような、超越的な領域である。