核軍縮への困難な道程(テクノロジーの暴政)
昨日、アメリカのバラク・オバマ大統領が広島の平和記念公園を訪れ、原爆投下によって惨たらしい死を遂げた人々を追悼する内容の演説を行なった。現職の合衆国大統領が広島を訪問するのは史上初めての出来事であり、メディアでも大々的に取り上げられ、諸外国の政府も敏感な反応を示した。
原爆投下という明白な戦争犯罪の禁を犯したアメリカが、原爆投下は戦争の早期終結を実現する為の不可避的な「英断」であったという公的な見解を有していることを思えば、今回のオバマ大統領の訪日が極めて危険で困難な選択であったことは言うまでもない。プラハ演説で「核なき世界」への希望を積極的に語り、その安全保障政策においてもイラク・アフガニスタンからの撤退や、シリアの内戦に対する地上軍投入への慎重な姿勢など、大雑把に言って米軍の「弱腰な総司令官」であったバラク・オバマの面目躍如といったところだろう。そのような「弱いアメリカ」の指揮官に対する国民の不満が、共和党の大統領候補としてのドナルド・トランプの躍進という極めて反動的でナショナリズム的な現象を惹起したことは皮肉な事実だとしても、オバマ大統領という人物が、大国アメリカの指導者としては充分に思慮深い人物であることは明瞭である。
私の父方の家は元々広島にあり、祖母は女学生だった頃に原爆の投下を経験している。現在の広島の市街地を見る限りでは、七十年前に巻き起こった空前絶後の悲惨な災禍の痕跡を読み取ることは難しいが、今でも被爆者の方々は存命であり、また被曝したという事実を根拠として生み出された被爆者への差別といった二次災害も、根本的な解決を見ないままに日月を閲している。
勿論、バラク・オバマは決してアメリカの代表者として「謝罪」に来た訳ではない。彼はあくまでも被曝した方々、或いは端的に原爆で殺された人々への哀悼の意を表し、そのことを通じて改めて核軍縮へ向けた世論形成を促しただけである。だが、それさえも極めて困難な選択の結果であったことは確かな事実であり、少なくとも直接に被曝した訳でもない第三者が「謝罪の不在」を批判するのは筋違いというものだろう。
だが、核軍縮が「核抑止」による安全保障という冷戦以来の思想の壁に阻まれ、その歩みを抑え込まれていることは、身も蓋もない現実であり、その意味でオバマ大統領の政治的なパフォーマンス(これは悪意を持って言う訳ではない)は、どれだけ誠実なものであっても、否応なしに現実の壁の険しさと人間の無力さを実感させずにはおかない。10000発の核弾頭を9000発に減らすより、1000発の核弾頭を10発に減らす方が遥かに困難で、周囲の抵抗も大きい取り組みであることは誰の眼にも明白だ。これほど相互的に緊密な合意を経なければ解決することの困難な問題というのは、それほど多くない。
人間が生み出したものでありながら、人間の手によっては制御しきれないもの、いわばテクノロジーの「悪魔」との困難な戦いは、オバマ大統領の演説にもあった通り、私たちが生きている間には解決し難い問題である。その時間的な壁は、この問題の解決を更に難しくさせ、遅延させる効果を有している。現代に生きる人々同士の間でさえ、互いの意見や心情を精確に分かち合うことは著しく困難であるというのに、時間を隔てて未来永劫、同じ一つの志を継承し続けるというのは、猶更困難な営為であると言わざるを得ない。
だが、核分裂や核融合といった危険な現象そのものは物理的な法則に内在するものであるとしても、それを実用化して工業的に抽出してみせたのは紛れもなく人間の努力であり、核兵器による悲劇もまた人間の技術の所産である。だとしたら、それは人間の力によって解決可能な問題なのではないか? こうした希望は、テクノロジーが人間を超越してしまうことが日常茶飯事であるような現代社会においては、殆ど欺瞞的な信仰であるかのように見える。例えば文学の世界では、所謂「SF」というジャンルに属する作家たちがあの手この手で、テクノロジーによって支配される人間の生存様式の変貌に就いて、幾多の幻想を書き連ね、読者の脳裡に刻み込んできた。その伝統を踏まえるならば、人間が生み出したものであっても、人間の手に負えなくなってしまう事物というものが、決して例外的な課題ではないことは明確に理解され得るだろう。もっと卑近な事例を取り上げて考えてみても、電気や水道やガスの供給が絶たれるだけで、私たちは忽ち平凡な日常生活を営むことさえ不可能になってしまうし、走行中に何らかのトラブルを惹起して動かなくなった自動車を自力で修繕する技術を持った人間は、これだけ自動車が汎用的なツールとして社会の隅々に遍在している時代であっても、限りなく乏しい存在である。元々は人間が生み出した筈のテクノロジーに、人間自身が抗い難く搦め捕られ、拘束され、支配されるのが現代社会の基本的な表象であり、そのような事態に対する恐怖と絶望の表象は「マトリックス」のような商業映画のポピュリズム的領域にさえ夥しく氾濫しているのである。
これらの時代的与件に縛られながら、核兵器という有史以来最悪の破滅的な技術の廃絶に立ち向かうことが、いかに巨大な人間的良心を要求するものであるか、想像しただけでも気が滅入るというのが多くの人々の素直な実感だろう。オバマ大統領の崇高な決意は、長い年月に亘って原爆の災禍に苦しみ続けてきた広島や長崎の人々にとっては、紛れもなく歴史的な転換点であるに違いない。だが、永年の悲嘆に堪え続けてきた彼らにしても、オバマの一存で米国の核廃絶が短期間に成し遂げられるなどと、甘ったるい幻想を懐きはしないだろう。原爆投下から、合衆国大統領が広島の地を弔問に訪れるまでの間にさえ、七十年という厖大な歳月が要求されたことを鑑みれば、核廃絶に向けた世界の歩みは蝸牛よりも鈍く、しかもその足取りは時に後退を強いられる局面すらあるのだという悲劇的認識が、私たちの常識であることは避け難い。
バラク・オバマの広島訪問という歴史的な事件が一過性の政治的パフォーマンスに終始しかねないことは、被爆者の方々こそ誰よりも切実に理解しておられるに違いない。だが、そのことに対して直截な憤怒を表明することがリアルな実感に反してしまうほどに、この七十年間は長く重苦しい遅滞に封じられ続けてきた。希望は未来へ繋ぐしかない。それを後続の世代に対する無責任な態度だと謗るのは容易だが、何れにせよ私たちはその地点から再び歩み始めるほかないのである。