サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(ロヒンギャ・人道的危機・世界宗教)

*夜の十時過ぎに仕事から帰宅して、夕食の仕度が整うのを待ちながら、普段と同じ習慣に則って「報道ステーション」を見ていたら、ミャンマーで起きた大規模な人道的災害に関するニュースが流れていた。ビルマ語を操る仏教徒が人口の大半を占めるミャンマーにおいて、独自の言語を用い、イスラム教を信仰する「ロヒンギャ」と呼ばれる人々に対して長年、国家的なレヴェルでの悲惨な暴力が吹き荒れているのだという。そうした不条理な暴力に対して、バングラデシュに逃れた四十万のロヒンギャの難民たちは大規模な抗議デモを実行し、国際連合アントニオ・グテーレス事務総長はミャンマーの人道的現状に就いて、真剣な懸念を表明している。

 アルカイダによる米国の同時多発テロから、イスラム国によるイラク・シリア地域を中心とした軍事行動に至る経緯により、宗教的過激派勢力と言えば直ぐに、イスラム原理主義のムジャヒディンが想起される慣わしが、私の脳裡には根付きつつあるが、原理主義は何も、イスラム教の専売特許という訳ではない。キリスト教の世界にも、熱狂的なファンダメンタリストは存在している。ミャンマーラカイン州を中心に繰り広げられている、ロヒンギャに対する深刻なジェノサイドには、仏教徒民兵も荷担しているらしい。言い換えれば、必ずしも一神教的な峻厳さを持たないように考えられている仏教の世界にも、異質な他者への高圧的な横暴を肯んじて恥じない過激な思想の持ち主が少なからず存在しているということだ。日本の歴史を顧みても、仏教徒たちは僧兵を有したり、一揆を繰り広げたりと、歴然と殺生戒の教えに反するような行為に手を染めてきた。キリスト教の十字軍や異端審問、或いはイスラム教におけるジハードだけを、宗教的な偏狭さに起因する暴力の事例として挙証するのは、必ずしも公正な態度であるとは言い難い。仏教的な暴力という奇態な矛盾が現実の世界に存在することを、ミャンマー仏教徒たち(無論、総ての仏教徒を含む訳ではない。ミャンマー仏教徒の中にも、ロヒンギャの虐殺に反対している人々は少なからず存在する筈だ)は、血腥い惨禍を通じて、国際社会に向かって立証してみせたという訳だ。

 釈迦如来の教えを信奉している筈の敬虔な仏教徒たちが、宗教や言語の異なる社会的集団に差別的な待遇を行なって恥じないという現実、しかもそれが殺戮や強姦などの醜悪な犯罪を通じて、具体的な排斥と攻撃へと転化しているという現実は、暗澹たる心境を私の心に強いた。決して良心的な善人を気取る積りはない。どんな犯罪者にも、相応の正義と言い分が存在することは認めない訳にはいかないし、仮に私がミャンマー仏教徒として生を享けていたら、ロヒンギャに対する反倫理的な攻撃に絶対に荷担しなかっただろうと言い切る傲岸な自信も有していない。だが、こんなに醜悪な現実が、数百万年の歳月を投じて徐々に文明化してきた筈の人類の歴史の最前線において、今も堂々と実在しているということは、悲嘆と絶望の直接的な源泉に他ならないだろう。ロヒンギャに限らず、たった七十余年の星霜を遡ってみるだけでも、私たちはナチスによるユダヤ人への筆舌に尽くし難い巨大な暴力の記憶に行き当たることが出来る。たった七十余年の歳月が、そうした人類史における最大の汚点の一つに対する反省を、これほどまでに身も蓋もなく歴然と褪色させてしまうというのは、恐怖すべき事態である。

 こうした悲惨な暴力が、国際的に知られる主立った世界宗教キリスト教イスラム教・仏教)の本質とは、根源的な意味で絶縁していることに、私たちは充分な注意を払うべきである。本来、世界宗教は民族や国家などの枠組みによっては遮られることのない、普遍的な浸透性を備えた信仰と教義の体系であるからだ。従って、こうした世界宗教の信仰を理由に人々が啀み合い、例えば十字軍のような宗教的抗争が展開されるのは、論理的に矛盾した現象なのである。言い換えれば、世界宗教は本質的に「抽象化された理念」として存在しなければならないという責務を負っている。だが、例えばイスラム国(Islamic State)のような過激派勢力は、イスラム教を絶対化することによって、世界宗教的な抽象化の志向に反動的な退嬰を齎している。ロヒンギャに対する仏教的右派勢力(例えば、アシン・ウィラトゥという僧侶の率いる「969運動」)の野蛮な振舞いは、仏教の普遍的な抽象性に対するローカルな「致命傷」に他ならない。

 更に懸念材料を妄想的に肥大させることも可能である。アルカイダなどのイスラム過激派勢力が、ミャンマーにおける同胞への苛烈な弾圧を、どのように解釈するだろうか? 最悪の場合、ミャンマーにおける一連の人道的惨事は、ムスリム仏教徒との間に大規模な宗教的抗争を喚起しかねないのである。そのとき、世界宗教は単に、規模を拡張しただけの民族宗教として、悲しむべき排他性を明瞭に身に纏うこととなる。それは宗教的な体系が本来有している筈の普遍的な可能性を閉ざし、座礁させることに繋がるだろう。日本でも「廃仏毀釈」などの歴史的な事例を鑑みれば、こうした一連の人道的惨事は決して対岸の火事ではない。