サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(高野山・空海・虚構性・他者の「無答責」)

*先日、珍しく土曜日に休暇を取り、母親と弟夫婦を自宅に招いた。夕方からは、地元の神社の祭礼があり、近くの通りは歩行者天国と化して、道に沿って一面に露店が軒を連ねた。台風の影響で弱々しい雨が降っていた。

 子供を風呂に入れた後で、居間のソファに陣取って久々にNHKの「ブラタモリ」を見た。テーマは和歌山県高野山で、弘法大師空海が切り拓き、創建した日本有数の霊場の様子が詳さに語られ、映し出されていた。

 私は空海に就いて詳しい知識を有していない。司馬遼太郎の著した「空海の風景」(中公文庫)も読みかけのまま、長らく放置している。私が持っているのは、極めて断片的な知識の切れ端に過ぎない。真言密教創始者であり、非常に博学多才で、宗教家としても書家としても一流であるという通り一遍の情報しか、この頭の中には残っていないのだ。小学生の頃、学校の図書室から様々な学習マンガを借り出して読み耽っていた私は、空海の伝記を漫画化した作品にも手を出したのだが、それは飽く迄も空海という人物の個人史的な表層を切り取ったものであり、本当の意味で、空海の本領や、その「凄み」のようなものを理解した経験は一度もないのである。

 だが、分からないなりに私は、歴史上にその令名を謳われる偉大な宗教家たちの生き様や思想に素朴な関心を懐いてきた。そもそも、宗教という巨大な思想的伽藍自体が、とても興味深いシステムに感じられる。それは近代的な自然科学の価値観に照らせば、概ね荒唐無稽な幻想の集積である。だが、そうした断定とは無関係に、宗教的なものの持つ異様な影響力は今も、世界中で強靭な作用を人々の精神と実存に及ぼし続けている。宗教的なものの虚しさや、その建設的な合理性の不足を、尤もらしい口吻で論難することは寧ろ容易い。神様なんか存在しない、常世なんか存在しないと、偉そうに断定して斬り捨てることは、文明化された人間の良識的な判断であるかのように考えられている。だが、そうした論難が宗教的な体系の保持している豊饒な権威を打ち崩すことは難しい。いや、難しいと言うよりも、無益であると言った方がいいだろうか。

 宗教とは何か、という難問に、私のような浅学菲才の人間が太刀打ちすることは不可能である。ただ、素人目にも直ぐ思い浮かぶのは、宗教的な体系が「信仰」という精神的原理との間に、容易に切り離し難い緊密な関係を取り結んでいるという事実である。何かを信じるということ、それは宗教的な体系の根本に位置する営為である。

 同時に宗教は、世俗の原理との間に何らかの隔壁を設けることを習慣としてきた。無論、それは世俗との交わりを一切断ち切るという意味ではない。禅宗でも浄土宗でも、悟りを開いた人間は再び俗塵に塗れて、衆生の為に働くべきであるという意味の教えが重んじられている。例えば、中国の臨済宗の禅僧が発案したという、悟りの階梯を描いた「十牛図」の掉尾は、修行を積んで解脱を果たした僧侶が、再び市井の暮らしの中に立ち戻って衆生の救済に邁進する姿で飾られている。だが、それは市井の凡人が俗塵に塗れて暮らすのとは全く意味合いの異なる境涯である。

 宗教が俗界との間に緊密な交わりを有することは事実である。特に大乗仏教は、自分一人の悟りに留まることを戒め、菩薩となって他者の救済に尽力することを、自らの思想の根本に据えている。だが、それでも宗教が或る特権的な超越性を、その内部に宿している事実から眼を背ける訳にはいかない。それが所謂「聖なるもの」ということになるだろう。では「聖なるもの」とは何か? 俗なるものから隔てられ、禁域に祀られる神聖な「何か」は、如何なる原理に基づいて聖化されているのか? そもそも、何かを「聖化する」とは一体、如何なる作用を意味する言葉なのか?

 こうした問題を、高野山の風景をテレビの画面越しに眺めながら、漫然と考えた。今まで知らなかったことだが、高野山では現在でも弘法大師空海が、奥の院の御廟で生きているという「物語」を信仰しているらしい。それゆえに、千年以上の長きに亘って今も、奥の院に朝夕二度の食膳を僧侶が運んでいるのだ。こうした「擬制」(こういう言い方が適切であるかどうかは別として)が、連綿と受け継がれて今も現実に続いているということは、驚くべき挿話ではないだろうか。現代の日本に生まれ育った僧侶たちが本気で、空海は今も生きていると信じ込んでいるとは思えない。にも拘らず、そうした擬制が途絶えることなく継承されているという事実は、単なる荒唐無稽の儀式と呼んで斥けられない、奇妙な迫真性を有しているように感じられる。この異常な信仰心(「異常」という言い方に悪意や、賢しらな批判の含意はない)の持続は、その情熱の出処は、奈辺に存在しているのだろうか?

 弘法大師空海が今も生きているという信仰が、科学的な事実に反していることは言うまでもない。だが、それが事実に反しているという認識は、こうした信仰の虚構性を、根本的な仕方では破壊し得ないのである。或いは、このような虚構は、仏教的なものの本質とは無関係な代物であり、所詮は世俗の論理の転用に過ぎないという見方も成り立つだろう。それでも、弘法大師空海が今も生きているという信仰そのものを否定することには帰結しないのである。こうした現実に、私は何だか蒙を啓かれたような気分を覚えたのだ。

 千年以上も昔に亡くなった人間を、未だに生者として扱い、二度の食事を毎日欠かさずに捧げるなどという営みは、現代の平均的な価値観から眺めるならば、恐ろしく無益な「愚行」に過ぎないだろう。だが、例えば盆や彼岸に身内の墓参りへ行くのも、葬儀に参列するのも、墓標を水で洗ったり、線香や仏花を供えたりするのも、馬鹿馬鹿しさという点では五十歩百歩である。にも拘らず、私たちはそうした「愚行」を、或る敬虔な心情を伴って生真面目に遂行する習慣を捨てていない。合理的に考えるということが世俗の規矩であるならば、このような堅苦しく欺瞞的な儀礼に時間と金を費やすような真似は即刻廃止すべきであろう。だが、私たちは自ら望んで「死者」に対する各種の儀礼の盛大な挙行を惜しまないのである。この矛盾に、宗教的な信仰心の「鍵」が潜んでいるのだと思われる。

 死者を弔うという儀礼は、それが原理的に交信することの不可能な相手との交信の企てであるという意味で、極めて宗教的な営みである。もっと言えば、そもそも死者を弔うという儀礼の中に、宗教の有する壮大な知的伽藍の最大の基礎が存在しているのではないか。宗教の本質は、私たちが知ることの出来ない、厳密な「他者」との交わりの内部に存しているのではないか。その「他者」がイエス・キリストであろうと、釈迦如来であろうと同じことだ。彼らは常に「無答責」である。従って宗教的な信仰は常に、厳密な「他者」に対する劇しい飢渇を病んでいるのである。