サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(ナボコフ「ロリータ」・今後の読書計画)

*最近は仕事に追われつつ、専らナボコフの「ロリータ」(新潮文庫)をちまちまと読み進めている。現代文学の古典の一つに数えられる「ロリータ」は、その性的な内容ゆえに当初は出版が難しく、結局はフランスのオリンピア・プレスという、ポルノグラフィの出版社から初版が刊行されたらしい。確かに、この作品に「変態小説」という肩書を被せるのは強ち不当な振舞いとも言えない。未だ百余ページしか読んでいない段階で、彼是と総括めいた表現を用いるのは公正な読者の態度であるとは言い難いが、手記の書き手に擬せられたハンバート・ハンバートの精神的な内容は、露骨なペドファイルとしての側面を微塵も隠し立てしようと試みていない。しかし、ロリータに対する性的な関心と妄想を詳細に書き連ねていくハンバートの(つまり、ナボコフの)偏執狂的な情熱と筆力は、この作品を、単なるペドフィリアを主題に据えた煽情的な三文小説であることから救済していると言い得るだろう。

 ハンバートのロリータに対する異様な執着を、ナボコフが如何なる個人的関心に基づいて組み立て、更には一つの文学作品として形成しようと考えたのか、その具体的な背景に就いて私は完全に無知である。ただ、ナボコフにとって本当に重要で意義深い問題であると感じられていたのは、ペドフィリアそのものであると言うよりも、それを精細に描き出す奔放で多彩な言語的挑戦の方であったに違いない、という印象は、作品そのものの感触から抽出することが充分に可能である。徹頭徹尾、ペドフィリアという主題に集中する形で作品の構成に腐心しているように見せかけながらも、ナボコフ自身の最大の目論見は、ペドフィリアという主題の内側には存在しないというのが、この「ロリータ」という作品を巡る消息の核心ではないかと、個人的には考える。

 直ぐに夏目漱石を引き合いに出すのも安易な気はするが、我慢して御付き合い願いたい。漱石の「吾輩は猫である」という小説は広く巷間に膾炙した有名な作品であり、日本語文学を代表する傑作の一つだと思うが、この作品における重要な主題は、猫の生い立ちや、麦酒を呑んだ末の大往生や、苦沙弥先生や迷亭先生の呑気な議論や、そういった物語としての側面には存在しない。猫を語り手に据えるという奇策も、所詮は縦横無尽の語りの方法を実現する為の手段に他ならず、物語の中身自体には、本質的な重要性は備わっていないのである。「猫」を読む醍醐味は、筋書きを味わうことの中には存在していない。皮肉な諧謔に満ちた猫の語り口を味わうことが、この作品の鑑賞の要諦なのだ。

 同じくナボコフの「ロリータ」も、描き出されるペドファイルの妄想そのものや、ロリータの姿態や言動を愉しむことが本当の眼目ではない。若しもそうならば「ロリータ」は単なる一介のポルノグラフィ以上の価値を帯びることは出来なかっただろうし、アメリカ文学の古典の一つに数えられることもなかっただろう。言い換えれば、「ロリータ」を読んで何らかの性的な慰藉を得るのは、余りにも実用的な態度であり過ぎるのだ(念の為に附言しておけば、私にはペドフィリアの性向はない)。該博な知識を織り込み、ダブルミーニングやライムを駆使して、独特の複雑な文章を拵えるナボコフの卓越した技巧によって完成された「ロリータ」は、新潮文庫の巻末に大江健三郎の附した解説に引用されているナボコフ自身の言葉を借りるならば、まさしく「英語という言語との情事の記録」に他ならない。だからこそ、取り扱っている主題の変態的な下品さとは裏腹に「ロリータ」の文章は、極めて知性的な舞踏のような品格を保持することが出来たのだろう。

 

*或る小説を読みながら、この作品を卒業したら次は何に着手しようかと、漠然と思考を巡らせることがある。最近は海彼の名作を周遊する旅路の途上であり、ウンベルト・エーコの「バウドリーノ」を皮切りに、フランツ・カフカの短篇小説、アルベール・カミュの「ペスト」、カズオ・イシグロの「日の名残り」と進んで、今はナボコフの「ロリータ」に辿り着いている。元々の予定では、ナボコフの「ロリータ」を読了した暁にはバルザックの「ゴリオ爺さん」(新潮文庫)に着手する段取りであったのだが、今はフローベールの「ボヴァリー夫人」を読んでから、ジュリアン・バーンズの「フロベールの鸚鵡」に進むという選択肢にも関心を寄せている。「フロベールの鸚鵡」は私が子供の頃、父親の書棚にハードカバーの単行本として収められていた作品で、何かの拍子にぱらぱらとページを捲ってみたら、妙に面白く感じられたことを今でも記憶している。

 ただ、この計画にも若干の揺らぎのようなものが生じ始めていて、先日、二階の納戸に置いてある私のささやかな書棚を眺めているときに、不図思い立って、古井由吉の「雪の下の蟹・男たちの円居」(講談社文芸文庫)を久々に開いてみたことが、その揺らぎの直接的な契機である。「雪の下の蟹」という短篇小説に就いては以前、このブログを開設して間もない頃に一度、その拙劣な感想文を投稿したことがあるのだが、正直に言えば、作品の魅力も、その方法論的な企図も、当時の私には到底理解出来たとは言い難いのが実情であった。同じ作者の「槿」(講談社文芸文庫)も、二十代半ばの、離婚して束の間の一人暮らしを松戸のアパートで始めた頃に買い求め、数ページだけ読んで以来、長らく放置したままになっている。「ロリータ」を読了したら、古井由吉という作家に絞り込んで、その豊富な作品群に連続的に挑戦してみるのも面白いかも知れない、という考えが、最近の私の脳裡を断続的に掠めている。傍から聞けば、まさしく「勝手にしやがれ」という話であるに違いない。無論、勝手にする積りである。何れにせよ、ナボコフの華麗で意地悪な文章との格闘を済ませない限り、前進することは出来ないだろう。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 
雪の下の蟹・男たちの円居 (講談社文芸文庫)

雪の下の蟹・男たちの円居 (講談社文芸文庫)