サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(カミュのヒロイズム・仙台旅行)

*先日、アルベール・カミュの「ペスト」を読んだ感想を記事に纏めて投稿したところ、以前から、そのブログを拝読させて頂いているid:filmreviewさんから、印象的なコメントを頂戴した。

 私はカミュの「ペスト」を、ヒロイズムに対する否定の身振りとして捉えて論じた。筋書き自体は、極めて容易に、息詰まる英雄譚として語ることの可能な物語だが、勇敢な医師と、ペストという不条理な「敵」との闘争の記録、という具合に「ペスト」を読み解くのは、贔屓目に見ても誤解なのではないか、というのが私の考えである。無論、小説に関する感想がどのようなものであっても、それを他人が「誤解」呼ばわりするのは筋違いであることくらい、私も理解している積りだ。だが、少なくとも「ペスト」という作品の随所に、英雄譚という物語の類型に対する否認の記述が織り込まれていることは、確かな事実であるように思われる。

 それに対して、filmreviewさんから頂戴したコメントを、下記に一部引用しておく。

 『ペスト』を読んだのはだいぶ前なので漠然とした記憶ではあるのですが、おっしゃる通り、不条理を人間の力で打ち負かすといった単純な英雄譚ではなかったと記憶しています。ただ、カミュは外的な不条理を描く一方で、自分ではいかんともしがたい自己自身のうちなる不条理みたいなものは描かないのだな、という印象をうけた記憶があります。彼の描く主人公は、不条理を直視し不条理を覆い隠す社会の欺瞞に反抗しはするのですが、自分自身に疑問の目を向けることがないというか。その意味で彼の描くものには、「不条理から目を背けずに対峙し続ける覚醒した自己」という意味での神話的・理想的な英雄主義のようなものが未だ残っているように思うのですが、いかがでしょうか。カフカと比べたときにカミュの観念性や理念性が際立つというのは、そこに関連しているのではと思います。

 カミュの作り出した主人公である医師ベルナール・リウーが、「自己自身のうちなる不条理」に関して盲目であったかどうかは、議論の分かれる点である。リウーが、どうにもならない現実に翻弄される一方で、どうにもならない内的な苦悩のようなものを全く意識せずにいたとは思えないし、自分自身の矛盾に全く眼を向けていなかったと断じることは難しい。

 だが、filmreviewさんの意見を踏まえて、改めて考え直してみると、確かにベルナール・リウーという人物の表象が、他の登場人物に比べて、極めて安定的で、首尾一貫していて、余りにもストイックであり過ぎるように感じられることに、私は気付かされた。その背景に、ベルナール・リウーが、アルジェリアの地方都市を俄かに襲ったペストの災禍に関する記録の書き手として設定されているという構造的な理由が関与していることは事実だとしても、それはリウーのストイシズムの原因であるというより、結果であると看做すべきだろう。ペストの災禍に巻き込まれて、オランに暮らす人々が悉く、それまでの生活の原理を歪められ、精神的な混乱に陥っていくのに対し、ベルナール・リウーは、或る意味では誰よりも責任の重い立場に置かれていながらも、己の倫理的な方針を少しも揺さ振られていないように見える。尤も、ペストの終息の後に届けられた妻の訃報が、リウーのストイシズム(それは無論、ヒロイックなものである)に対する皮肉な痛撃として描かれていると考えることは充分に可能である。しかし、それによって彼の人格がコペルニクス的な転回を遂げることはない。こういう言い方が適切であるかどうかは分からないが、リウーという人物の精神的本質は、この「ペスト」という作品を通じて、聊かも変容していないように見える。それは言い換えれば、この「ペスト」という作品が紡ぎ出された当初から、リウーに負託された作者の「結論」は確定しており、「ペスト」という一つの文学的経験は、その「結論」を揺さ振るものではなく、寧ろその正当性を立証する為の「手段」として位置付けられていた、ということである。このような考え方が、カミュに対して公平な態度であるかどうかは心許ないが、一つの見方としては成立し得るだろう。その意味では、filmreviewさんの仰る通り、カミュは「不条理から目を背けずに対峙し続ける覚醒した自己」という英雄的なアイデンティティを堅持していると言える。

 ベルナール・リウーという架空の人物を、作者と性急に同一視してしまうのは危険な判断かも知れないが、作品の構造を徴する限り、リウーに対するカミュの倫理的且つ実存的な負託は決して小さなものではないと思う。言い換えれば、ベルナール・リウーの英雄的なストイシズムは、アルベール・カミュという生身の人物が懐いていた倫理的な「理想」の形象なのではないか。その素朴な憧憬の念が、ヒロイズムの排斥という小説的な「狡智」の効き目を幾らか弱めていることは事実かも知れない。

 

*明日から二泊三日で、妻子を伴って仙台へ旅行する手筈になっている。最近、激務が続いていたので、骨休めと気分転換を兼ねて、見知らぬ土地の空気を吸いに行きたくなったのだ。

 千葉から仙台まで、新幹線で二時間弱の旅程、それほど遠く離れている訳でもないのに、今まで一度も足を踏み入れる機会に恵まれなかったのは、何故だろう。何故、不意に仙台へ行こうと思い立ったのだろう。こういうことは、改めて考えてみると不思議なように思えるが、単なる偶然に過ぎないことも分かっていて、要は「縁」の問題なのだと、気安く片付けてみるしかない。

 旅先に携えていく本は、カズオ・イシグロの「日の名残り」(ハヤカワepi文庫)である。別に仙台旅行と関わりがある訳ではない。カミュの「ペスト」や、ナボコフの「ロリータ」と共に、纏めてAmazonへ注文していた中の一冊である。数日前から読み始めたばかりだ。執事のスティーブンスが、イギリスの西部地方へ旅立つのと歩調を合わせて、明朝、私も日本の東北地方へ出発することにする。

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

 
日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)