サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「正しい意見」よりも「自分の意見」を語ることの倫理性

 こうしてブログに投稿する記事に限らず、何らかの事物に関して私見を書き綴るとき、決して高慢に思い上がっている訳でもないのに、知らず知らず私は「自分の意見」よりも「正しい意見」を書き連ねようと試みている己に気付くことがある。無論、ブログの記事というのは原則として不特定多数の人々の眼に晒されるものであり、そうした条件を鑑みるならば、顔も見えず声も聞こえない見知らぬ誰かの心に不快な印象を与えぬように一定の配慮を試みるのは基本的なマナーの部類に属することであろうし、或いは己の無知や偏見によって第三者の嘲笑を招くことのないように意見を述べたいと思うのも自然な人情であると言うべきだろう。しかし、正しい意見ばかりを書かなければならないと考えるのは余りに窮屈で厳格な条件である。もっと言えば高慢な方針である。誰が見ても反論し難い正しさに貫かれた意見を、独断と偏見に満ちた私の混濁した頭脳が導き出せる筈もない。そもそも、絶対的に正しい意見など存在しないという言い古された前提を忘れてしまうのは、己の見識を全知全能の神に擬することに他ならない。その意味で、正しいことだけを言おうと試みるのは総ての人間にとって「高慢な方針」であると言わざるを得ないのだ。

 にもかかわらず、そのような「高慢な方針」に私が手を伸ばしてしまうのは、虚栄心と恐怖心のアマルガムの為せる業である。他人の嘆賞を一身に浴びたいという度し難い承認欲求の情熱と、他人の怒りを購ったり痛烈な罵倒を喚起したりすることへの臆病な不安が、私に「反論し難い正しさ」への志向性を宿らせるのだ。つまり、それは絶対的な正義への気高い希求の所産などではなく、極めて見窄らしいナルシシズムの反映でしかない。正しくありたいという崇高な倫理的情熱に強いられて、何事かを偉そうに語ろうとしている訳ではないのだ。だとしたら、正しい意見、誰にとっても絶対的な正義であるような意見を語ろうと努めるのは寧ろ、倫理的な堕落の形態に該当すると言い得るのではないだろうか。

 絶対的な正義、あらゆる人間の価値観を包摂してしまうような正義の樹立、それは不可能であるというのが現代的な倫理の規範であると私は信じている。正義というのは人間の数だけ存在し、それらは多くの場合、相互に矛盾する要素を孕んでいる。最大公約数の妥協点を見出すべく折衝を重ねることは出来ても、総ての人間が何らの但し書きも付さずに同意し得る普遍的な条項など有り得ないのが、現世の理というものである。

 だからこそ、意見を語るときは「自分の意見」として語ることが、重要な倫理的効果を担う。勿論、それは何が何でも「オリジナルな意見」を語るべきだという意味ではない。芸術家的な独創性への固執と、「自分の意見」を語ることの倫理的な意義との間には、明確な聯関は存在しない。独創的な意見を述べようと試みるのは、或いは自分の見解が独創的であることに過剰な執着を示すことは、絶対的な正義を語ろうと企てる人間の心性と、構造的には同一であることに注意を払うべきだろう。結局、それは「自分の意見」であるというよりも、自分という人間をアピールする為のパフォーマンスの一環に過ぎないのである。無論、意見を述べることとパフォーマンスが結び付くこと自体に倫理的な問題が潜在すると言いたい訳ではない。だが、専ら他人の賞讃を得る為に語られる意見というのは、結局は虚栄心の充足に奉仕するばかりのものであって、自分自身の考えた結果、他人の様々な意見を勘案しながら産み落とされた個人的な思索の結果ではない。本来、自分の意見というのは自分自身の人生を支え、導いていく道標として用立てられるべきものなのであり、他人の反応は副次的な価値しか持たない筈だから、その副次的な価値に囚われて変節も辞さないというのでは本末転倒である。或いは、大多数の人間が賛同する意見に従ってみせるのも、結局は自己保身を目的とした表層的な演出であり、私が本稿で何度も名指している「自分の意見」を語ることとは全く異質な営為である。

 しかし、何故「自分の意見」を語ることが倫理的な価値を持つのか、という問題の構成は、そう容易く答えられる設問であるとは言い難い。社会の公共的な領域において広範な支持を得ている支配的見解に従属することも、倫理的な意義を満たす行為の一種であることに違いはないからだ。

 取り急ぎ、この難解な設問に応答するとしたら、私は次のように述べることしか出来ない。即ち「自分の意見を持ち、語ることが倫理的に尊いのは、それが自分自身の真実の姿を把握することと同義であるからだ」というのが、今の段階で私が提示し得る答えの形である。無論、此れは極めて私的な定義であるに過ぎず、その理論的な整合性に就いて綿密な検討を経由したものではない。だが、自分の意見を持つこと、つまり自分の意見がどのようなものであるのかを書くことや語ることを通じて把握することは、自分自身の等身大の姿を把握することに他ならないという認識は、それほど奇矯なものではないだろう。等身大の自分という言い方は安手の自己啓発書めいた文言で余り快いものではないが、私たち人間は他者を理解するのが苦手であるのと同じくらい、自分自身の真実の姿を把握することも苦手であるのが普通だから、等身大の自分を見定めようとする努力には嘲笑し難い価値があると言える。驕り高ぶるのでもなく、惨めなほど卑屈に振舞ってみせるのでもなく、今現在の己の実相(禅家風に言えば「真面目(しんめんもく」)を冷静且つ澄明に捉えることは、人間の精神の最も健全な形である。殊更に近代的な啓蒙主義の合理精神を持ち出さずとも、物事を事実に即して捉えるという態度には、様々な迷妄を払い除ける解毒の効果が備わっている。私はどういう人間なのか、それを学ぶことは生きることを支える重要な支柱であり、倫理的な規範そのものである。何故なら、私たちは自分が本当に望んでいるものが何なのかということさえ頻繁に見誤ってしまうほど、己の真面目に関して絶望的に無知な生き物であるからだ。私たちの認識論的な機能は、下手糞な調整しか出来ないカメラのレンズのようなものであり、適正なサイズで自分自身の姿を把握することに日常的に失敗している。そこから森羅万象の認識論的な歪曲が生じて、物事の本質に関する精確な理解を妨げるのである。

 何か壮大な社会的理想を語る以前に先ず、私たちは自分自身に就いての認識と思索を充分に深化させるべきである。その基礎的な手続きを省いてしまえば、どんな理窟も砂上の楼閣に帰着するだろう。或いは、自分自身の意見を語っている積りでいながら、何処にも存在しない「贋物の自分」に就いて語るだけで終わってしまうだろう。今どき「贋物の自分」なんて言い方は流行らないだろうか? だが、他人の断片で縒り合わされた幻想的な自画像に固執することの虚しさは、時代の風潮とは無関係に生起し続ける人類の普遍的な宿痾である。どんな時でも先ず、自分自身の意見を徴することから始めなければ、健全な議論を組み立てることなど出来ない。少なくとも私たちの暮らす日本社会においては、所謂「近代的自我」なるものの建設は決して旧時代の遺物めいた古臭い慣習ではなく、未だ一度も完璧には達成されたことのない「来期の課題」なのである。