サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

個人的であること、主観的であること

 個人的であることと、主観的であることは、一見すると似通った言葉=観念に思われて、容易く混同されがちな傾向があるけれども、両者の意味合いは本質的に異なっているのではないかと思う。

 主観的であるということは、物事を客観的に捉えられないという意味に留まらず、例えば誰か自分とは異質な存在に空想の中で成り代わって、普段の自分とは異なる場所と角度から物事を眺めてみる、という認識的な冒険を繰り広げることが「出来ない」という意味を含んでいる。つまり、単一の自分自身の固定された視座から「脱け出す」訓練が身に着いていないということだ。もっと直截な言い方をすれば、頭の中身や視界の枠組みが「偏狭」であるということだ。

 個人的であるということは、そのような主観性の牢獄に囚われているという意味ではない。巨大な観念や理想に欺かれることなく、自分自身の「個人的な体験」に根差して物事を判断する、自律的な力強さが存在するという意味だと、私は解釈してみたい。借り物の言葉や観念に基づいて、つまり「他人の言葉」を無反省に信じ込んで、その尺度に自分の生き方を委ねるのではなく、飽く迄も自分の実体験から、自分の頭を濾過することで得られた知見を踏まえて、どう生きていくかを判断するという態度を、私は「個人的であること」の定義として採用したい。

 その重要性を最近、特に強く痛感する。過去を顧みても同じことが言えるのだが、生きることは常に「自分で責任を取る」ことと分かち難く結びついている。厳密に言えば、そうであるべきだと私は思う。他人の言葉や知見を参照するのは別に構わないし、誰だって全くのゼロから、総ての価値観を自分の体験だけで構成することは出来ない。他人の知見から何かを学び取ることは、人生の根幹に存在する基礎的な営為だ。しかし、そうやって「外部の正解」を探し続ける生き方は結局のところ、自分自身の本心を抑圧する結果にしか繋がらない。だとしたら、たとえ客観的には「謬見」であったとしても、自分で考え、自分の実感として導き出した暫定的な答えを確りと外部へ発信しながら生きること、それこそが本当の意味で「生きること」なんじゃないかと、改めて思い知っている。その背景には無論、先日来ずっと悩み続けていた「転職」の問題が介在している。「転職」を志し、それに伴って自分の価値観や本音を棚卸するような思索を日々、延々と積み重ね続ける中で、辛うじて辿り着いたのは、自分の本音、自分の意見を大事に取り扱うということだった。結果として私は今、転職という選択肢を放棄し、今の環境でもう一度頑張ってみようという結論に達している。その選択は、私の臆病な気質の所産であるかも知れないが、決断の理由はそれだけではない。

 どんな環境に置かれていても、そこで日々生起する「自分の考え」と正面から向き合わずに誤魔化し続けている限り、本当の意味で「充実した生」を歩むことは出来ない。転職活動の過程で、私は会社の上司に「転職したい」という自分の意思を伝え、附随する様々な考えや想いも併せて告げた。傍から見れば余計な行為だったと感じる方もおられるかも知れないが、そうした感情を自分の内側に溜め込んで悶々と悩み続けているだけだったとしたら、私は今でも踏ん切りのつかない精神的な泥濘の中で足掻いていたに違いない。どういう結論に辿り着くとしても、自分の想いを関わりのある他者に伝え、何らかの反応を得た上で、自分の想いの輪郭を彫刻刀で削り出すように明確に表していくという迂遠な手続きが、昨今の私には必要な行為だったのだ。相手との表面的な関係の悪化を懸念する余り、本心を抑圧したまま生きるのは、却って他者との関係性を疎略に扱うことに他ならない。ブログで不特定多数の見知らぬ人々に向かって情報を発信したり、自己の内面を表現したりすることも有益な行為に違いないが、それ以前に、自分の所属する日常的な現実の中で、同じように自分の想いを少しずつでも語ること、そして自分の考えに基づいて働いていくこと、それこそが環境の問題を越えて、最も重要な「人生の核心」なのではないかと思う。自分の頭で考えることは、正解に辿り着くということではない。正解に辿り着けなくとも、自分の頭で考え、自分で暫定的な結論を導き出すという、或る意味では不毛な営為の蓄積だけが、所謂「生きる歓び」の唯一の原資なのではないか。人生は、間違いの連続であっても構わないのだ。重要なのは、その間違いの連鎖の中にさえ「自分自身の想い」を誠実に注ぎ込むことであると、現在の私は信じている。