サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

無害で安全な幸福

 無害で安全な幸福という言い方には明らかに批判的な意識が反響して聞こえるだろう。私自身、無害で安全な幸福に憧れを持たない訳ではないし、傍目には、今の私の生活自体が、無害で安全な幸福の典型のように映じるかも知れない。

 けれども、無害で安全な幸福だけが人生の理想的な形態であると短絡的に断じる気分にはなれない。無害で、清潔で、安全で、完璧に制御された幸福な人生。研究室で培養された無菌の人生。人間というのは実に厄介な生き物だ。不幸であるときは我が身の不遇を呪い、他人の幸福を妬むくせに、いざ幸福に首まで浸ってしまえば、幸福の単調な音律に不満を述べ立てるのだから。

 安全で後悔のない選択肢ばかりを買い漁る卑しさ、それは生きることの本質的な危険性に対する黙殺の所産である。苦しみや不幸は一糸たりとも不要であると言い張る、精神的な吝嗇。掠り傷にさえ怯え、慌てて軟膏を塗りたくる過剰な健康主義。だが、傷を負うことは罪悪であろうか? あらゆる疾病は不本意な悲劇であろうか? 苦しむことは時間の空費なのか? 我々は殺菌された単純な快楽だけを貪る為に生まれてきた、怠惰な家畜なのか?

 何も私は過激なラディカリズムを信奉したいのではない。三島由紀夫の作品ばかり立て続けに読んで、その破滅的なニヒリズムの感性に蝕まれたのでもない。世の中の道徳は、健全な幸福と正統な愛の素晴らしさばかりを憑かれたように称揚する。そういう一面的な思想が嫌いだ。有り触れた、卑俗で健康的な価値観ばかりが蔓延するのは願い下げだ。私たちには創傷を負う権利があり、泥濘に埋もれて悪足掻きを演じる資格がある。それは幸福を希求する気持ちと別に矛盾しない。重要なのは、多面的な存在であることだ。或る一つの単純な理念の下に、総てを整序してしまわないことだ。人間の内部には光と闇が同居している。光だけを見凝めようと試みれば、きっと私たちは何も見ることの出来ない動物に成り下がるだろう。

 無害で安全な幸福、煎じ詰めればそれが人間社会の究極的な目標であり、崇高な理念であると言えるかも知れない。けれども、それは北極星のように手の届かない場所に飾られて輝くことに本来の価値がある。それは確かに私たちの生活を導く重要な指標として働くが、北極星以外に如何なる価値も認めないのは余りに偏狭で貧相な考え方である。正しい愛、健全な幸福、誰もが認める瑕疵のない清廉な人生。それだけが美しく素晴らしいと信じて疑わないのは、人生の複雑な諸相に眼を瞑ることに過ぎない。その無垢な盲目が、人間の理想的な姿であると断定して迷いもしないのは、その人間の精神的な未熟を意味している。

 正しさだけを選ぶ清廉な生き方を、誰が貫徹出来るだろう。如何なる闇も忍び込まない完璧な心など、地上の世界に存在する筈がない。人間はそのように創られていない。闇を知らずに、闇から眼を背けて、事物の明るい側面だけを眺めて生きようという賢しらな世間知、行儀の良い道徳的な姿勢が、私は嫌いである。

 私は無自覚な偽善が嫌いである。精緻に計算され、狡猾に統御された偽善は好きである。偽善であることを承知で、巧みに仮面を被り、衣裳を取り換えるのは背徳ではなく、寧ろ創造的な美徳ではないか。事物の明るい側面だけに眼差しを据えて生きようとするのは、換言すれば、事物の深層から絶えず眼を逸らすということであり、自らの思索を枯死させる行為に他ならない。自分に都合の良い事柄だけを認識して、その他の事柄に就いては意図的な無智を貫き通す、極度に防衛的な姿勢。

 私は、無垢で他人を信じ易い性格の人間を見ると不安を覚える。言い換えれば、私は無垢なものが嫌いなのだ。純潔な処女性、それを過剰に有難がる人々の気持が、私には到底理解出来ない。確かに無垢なものは美しい。しかし、その美しさは余りに脆弱で、免疫が弱過ぎる。地上の苦しみを潜り抜け、鍛え抜かれた堅固な美しさではない。清濁を超越した場所に樹立された美しさではないのだ。人間は、清らかなものだけを信じて生きていくことは出来ない。底知れぬ闇の忌まわしさから、顔を背けてはならない。