サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

書くこと、紡ぐこと

 世間が寝静まった夜に、こうやってパソコンに向かって当て所もなく文字の列なりを打ち込み続けるという奇特な習慣を己に課すのは、我ながら異様な振舞いだと感じない訳ではない。そもそも、黙々と文章を書き連ねるという行為、具体的な誰かに宛てた私信という訳でもなく、現世の大海原に瓶詰の手紙を投げ込むような遣り方で、こうして誰が読むのかも分からない文章を書き続けるというのが、常軌を逸した営みであることは、私自身、明瞭に弁えている積りだ。

 何故、書くのか、という根源的な問いは、幾ら厳密に遡ろうとしてみても、そもそもが雲を掴むような話であり、足りない智慧を絞り尽くして明快な答えに至ろうとする無謀な試みは絶えず流産を強いられ続けている。考えれば考えるほどに、正しい答えの断片は捉え難い不可視の暗闇へ押し流されていき、不完全燃焼の心が後に残されるばかりだ。

 書くこと、それを一般化して論じること自体が元来不毛な話であって、人間の個性が様々であり、それぞれの置かれている環境が恐るべき多様性に覆われていることを鑑みれば、書く欲望の正体に関しても単一の定義を期待するのは最初から無益な企てであると言わざるを得ない。書くことの理由は、書く人の数だけ星屑のように夥しく存在し、それらを紡ぎ合わせて一幅の明瞭な絵画に纏め上げることは不可能に等しい。何故、人は文章を、誰からも頼まれなくとも文章を書こうと試みるのだろうか? 果たして、そこに明瞭で合理的な理由など実在するのだろうか? 問い始めれば際限がなく、出口は一向に私の視界を横切ってくれない。

 書くことは、何かを伝える為に行なわれるのだろうか? 勿論、それは一面的な真理であるに違いないが、そもそも誰かが読んでくれる保証もない中で、多くの人は書き始めるだろうし、世の中に蔓延る浩瀚な日記帳の中身だって、専ら自分自身との秘められた対話として綴られているものが大半を占めているだろう。書くことは訴えたり、伝えたり、告示したり、宣言したりする行為である以前に、先ずは潜在的な自己との飽くなき対峙なのである。私たちは愚かにも、私たち自身の本音を、抑え付けられた魂の内側に眠る切実な欲望や記憶の形さえ、満足に把握していない。だからこそ、書くのだろうか? 自分ではどうにもならない不定形の「闇」が私たちの内部には度し難く蟠踞し続けており、その正体を暴き出す為には生半可な思索では力が及ばない。そのとき、私たちは「書く」という奇怪な秘儀に手を染めることを俄かに思い立つ。

 いや、最も根源的な場面は、何かを、つまり見知らぬ誰かが書いた文章を「読むこと」であるのだろう。何も読まずに、何かを書くことは実質的に不可能であると私は信じる。書くことには必ず偉大なる先達が存在しており、そもそも「言葉」という仕組み自体が、父祖の世代からの優れた「贈り物」として私たちの眼前に提示されていることを思えば、読むことは書くことの絶対的な濫觴であると言えるだろう。読むことだけが、書くことの可能性を切り拓く重要な礎石として機能し得る。ならば、書くことは自分が与えられたギフトを誰かに受け継がせることに他ならないのではないか。読むことと書くこととの間に存在する秘められた強靭な紐帯は、私たち人類の「歴史」そのものではないのか。

 結局、私たちは書くことを通じて、それまで知られていなかった自己の新たな側面と向き合うことになるし、今まで理解していなかった新たな考えと邂逅を遂げることになる。そうやって紡ぎ出された清新な「思想」は、私たち自身の生き方を支える豊饒な滋養であると同時に、他者への大切な贈り物でもある訳だ。