サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

徒然なるままに

 最近、以前に書き始めて暫く放置していた「ツバメたちの黄昏」という小説の続きを書くことに熱中している。いや、熱中と呼ぶには程遠い水準の熱量で書き綴っているのだが、その背景には、当て所もなく寄る辺ない雑文を草するばかりでは満たされない「己の内側の空洞」を感じるところがあるからだ。何か軸になるものが欲しい、単に文字を書き連ねることが出来ればそれで十全に満たされるという訳ではないのだ。

 ブログというものが、或いは随筆というものが、生きることの枢軸を占めるというのは、大袈裟に言えば異常な状態である。それは本来、生きることの日々から食み出し、滲み出てくる有形無形の「何か」を言葉の繊細な「匙」で抄い上げる営みなのだ。だから、それが生きることの中心を占めるようでは本末転倒の謗りを免かれない訳である。

 一方、何らかの「作品」を構築するというのは、やはり立派な「仕事」であるから、生きることの中心に据えても何ら問題はないのではないかと、個人的には思う。何かを形作るということ、それは日々の雑駁な出来事や断片的な思索の中から、何かを蒸留し、何かを結晶させるということだ。小説を書くというのは、そういう「抽出」の作業であり、そうやって色々なものを混ぜ合わせて一つの有機的な構築物として仕上げることは、魅惑的な取り組みであるに違いない。そうやって過去にも、そして現在においても、多くの人々が壮麗な言葉のタペストリーを織り上げ続けてきた。私もそうした古来の伝統の末席に連なりたいと切実に望むばかりである。その作品の社会的な価値が紙屑同然の水準にしか達し得ないとしても、それは創ることの歓びそのものとは、直接的には関係しない問題である。