サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「叱責」という点滴

 私は東日本大震災の起きる直前の2011年晩冬から三年余り、市川市の店舗で店長を勤めていた。現在の妻は、その店舗で働いていたアルバイトスタッフであった。

 先日、当時一緒に働いていたパートの主婦三名を、私の妻が家に招いた。私も休みだったので、同席した。一番のベテランであるMさんを除き、他の二名と妻は、私が採用したスタッフである。彼女たちとの会話で、市川に配属されていた当時の断片的な記憶がちらほらと甦った。

 彼女たちから山ほど濫れ出してくる仕事の上での愚痴に耳を傾けたり、茶々を入れたりしながら、妻も含めた嘗ての部下たちに言われたのは、往時の私の異様な冷酷さと厳格さであった。今では随分と円満な性格になったと妻にも言われるが、特に震災が起きた当時の私の働き方は、鬼気迫るものがあった。酷薄、無情、残忍といった形容が相応しいかも知れない。他人の失策や不手際が許せず、何か問題が起これば情状酌量など検討もせずに厳しく詰め寄る。客観的に眺めれば所謂「パワハラ」以外の何物でもない行為に手を染めることも一再ではなかった。

 その当時は二十五歳くらいで、離婚したばかりで何もかも喪失したような虚無感に心身を蝕まれており、休みの日には幼い息子を保育園に迎えに行き、実家へ連れ帰ってテレビゲームで遊ぶという習慣を堅持していたが、暫く経つと前妻から、もう少し頻度を下げろと窘められた。離別したとはいえ、五年半も一緒に暮らしていたのだから、先方も私の心理的な傾向に就いてはそれなりに鋭敏な観察の成果を蓄積している。離婚の喪失感を少しでも補填しようと、今まで通りの習慣を維持し、息子に執着することで内なる空白を紛らわそうとする私の粘着質の生き方に、嫌悪と憐憫を覚えたのだろう。自分の人生を考えろ、何時までも過去に囚われるな、と彼女は言った。昔から、思ったことは冷然と明言する女である。執拗に未練を引き摺る私の姿が鬱陶しく、目障りでもあっただろう。冷水を浴びせられたような気分で、私の心は愈々進退窮まった。どうやって、この監獄のような孤独から、明るい地上へ這い出せるのか、見当もつかなかった。

 そんな私の精神的空洞を埋めるに当たって、最も合理的であったのは、仕事に打ち込むことであった。職場へ行けば、少なくとも孤独の凄まじい閉塞感を薄れさせることが出来るし、仕事に入れ込んでいる間は、人生の索漠たる側面に就いて彼是と思い悩む必要もなくなる。労働というものは、不思議な薬効を備えているのだ。確か保坂和志の言葉に「労働に思想は必要ない」というものがあったように記憶しているが、言い得て妙である。働くことに熱中し、業務上の「思索」に限って気力を傾注していれば、実生活の孤独や、裸一貫の存在としての「自己」を顧みる機会は必然的に減少するのである。私は熱心な「社畜」に転身することで、我を忘れようとした。「忘我」という薬が、当時の私には何よりも必要な治癒の手段であったのだ。

 そうやって労働に血道を上げる人間が、部下に対して温厚で寛容な態度を守り続けることは難しい。自分自身、一年くらいは朝から晩まで働き通す苛酷な生き方を己に課していたし、誰よりも本気で仕事に向き合っている自信があった。ワーカホリックという言葉が相応しい精神状態だったのだ。他人の失策が許せなくなるのも当然で、過ちを犯した人間は処罰されるべきだという強権的な思想さえも懐いていた。休みの日でも店舗に顔を出すくらい熱心に働いていたものだから、生活の重心は家よりも職場に移り、人間関係も職場の同僚(私が店長だから、厳密には皆「部下」という扱いになるのだが)だけで占められるようになる。そのうち、私は直属の部下に当たる女性社員と恋仲になったのだが、そういう関係になっても仕事に関しては持ち前の厳格さを和らげることが出来ず、度々口論になった。上司=部下という関係性と、彼氏=彼女という関係性を同時並行し、場面によって巧く切り替えるのは至難の業である。休日、何処かへ出掛けたときでも、話題が仕事に及べば互いにプライドもあるから、相手の言い分に対して譲歩することが屈辱のように感じられてしまう。しかし、職場での付き合いから発展した男女関係というのは原則として、相手の働き方に対する敬意を基盤として培われるものだから、なかなか仕事の話題を排除することも出来ない。結局、その関係は先方の転職を契機として一年も保たずに終焉した。

 それから随分経つが、近年の私は声を荒らげて誰かを叱りつけるようなことが殆どなくなってしまった。勿論、出来の悪い社員やアルバイトが何度も同じミスを繰り返したり、余りに物分かりが悪かったりしたときには、厳しい物言いが飛び出す場合もあるが、その頻度は年々減少している。優秀なメンバーに恵まれているという事実の裏返しなのかも知れないが、私自身の価値観の変化ということも影響しているように思う。

 叱責という行為は、いわば点滴のようなもので、余程重大な症状を呈している場合に限って実行される特殊な行為なのではないかと思う。店舗に限らず、あらゆる組織には規律があり、相互的な関係性があり、綜合的な秩序がある。それらの一部が欠損したり、或いは循環が滞ったり、機能不全を起こしたりすれば、人体同様に組織もまた傷み、腐り、やがて致命的な劣化に達するだろう。

 昔の私は、点滴の常用によって秩序を保ち、店舗の健康状態を維持しようと考えていた。問題が起これば点滴を打てば良い、悪い部分は切除すれば良い、というのが基本的な方針で、成る可く切除せずに状態を改善しようという根気強い、殊勝な考え方には冷淡であった。透析で血を浄化するように、新人をたっぷり採用して優秀な人材だけを生き残らせようとするのも、日常的な方針であった。

 だが、今は成る可く点滴など打たずに済ましたいというのが、私の正直な気持ちである。理由は簡単で、点滴では人は育たないからだ。外科医のような侵襲的医療は、既に悪化してしまった問題に具体的な改善を施す為の措置であるが、それは持続的な健康や成長とは異質な分野に属する手法であろう。人を育てる為には、サイボーグでも組み立てるように、劣化した部品を悉く新品と取り換えていくという訳にはいかない。重要なのは、銘々の個性を活かして、伸ばすべきところを伸ばし、弱い部分には最低限の補強を施すという穏便で粘り強い指導なのだ。「不要なもの、劣悪なものは切除する」という往年の私の遣り方は、労働力が不足し、働き方が多様化していく日本社会の変容には適合しないだろうし、倫理的にも問題がある。腐った組織を立て直す為ならば、侵襲的医療も有力な選択肢の一つに挙げられるかも知れない。だが、それは「治療」であって「育成」ではない。