サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

海を走る電車

 宮崎駿の「千と千尋の神隠し」に、千尋とカオナシが電車に乗って、海の上を渡っていくシーンがある。「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)という本の中で、宮崎駿はこのシーンのことを「作品の山場」と呼んでいるが、実際あれは物語の重要な転換点になっていると思う。それまで物語はずっと、八百万の神様の集う温泉旅館「油屋」の内部で営まれていたのだが、このシーンを境にして、物語は色調を一変させる(個人的には、FFⅦの序盤でミッドガルを脱出し、初めてワールドマップへ飛び出した瞬間の壮大な解放感を想起させられる)。

 静かな海原を延々と電車に揺られていくというのは、アニメーションならではの美しい情景で、油屋という珍妙で滑稽な夢想的空間を眺めるだけでも観客は充分に愉しめるというのに、それに加えてあのような神秘的で哀切なイメージを持ち出してくる辺り、宮崎駿という人の想像力=創造力にはつくづく驚嘆させられる。元々、話の筋書きの上でも本質的に「途方に暮れている」千尋が、海原を往く電車に或る決意を固めて運ばれていくというシーンの静謐な哀切さは、殆ど類例のない芸術的奇蹟のようなものである。海原と電車という組み合わせ、その着想自体に、私たちの心を騒めかせるような異郷の感覚が漲っているのだ。

 単に旅立つだけなら、別に電車でなくたっていい訳だが、敢えて自動車や馬車といった「主体的な乗り物」ではないというところに、独特の感興が滲んでいる。あの海原は、単なる曠野ではない。いや、道なき曠野を踏破するということでもよかったのに、敢えて電車のイメージを持ち込むことで、その曠野には見知らぬ誰かの記憶や社会的営為が刻み込まれることになる。道のない荒涼たる空間を踏破する為には、道がなくとも走れる自動車(パリ=ダカールラリーのような)のイメージが必要であろう。だが、電車ならば、誰かが軌道を敷設したということになり、誰かが電車を走らせているということになる。見知らぬ土地を往く電車というのは、単なる曠野ではなく、曠野に切り拓かれた先人の息遣いが吹き込まれているものなのだ。その事実が、海原を往く不安との間に、独特の混淆を遂げて、言い知れぬ感慨を私たちの胸底へ喚起する。踏切の警笛が鳴り、亡霊のような異形の存在たちが乗降を繰り返す。そこには、恐怖でも刺激でもない、静謐な奇想の手触りが満ちている。ああいうものを生み出す為には、単なる物語の暴力だけでは足りない。精細なアニメーションの、視覚的な説得力が不可欠である。世界の涯へ連れて行かれるような「海原を往く電車」のイメージは、「千と千尋の神隠し」という作品における芸術的な心臓なのである。