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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ファンタジーという言葉 2

 或る意味では、どんな種類の文学作品もファンタジーの眷属なのだと強弁することは充分に可能である。どんな文学作品も、それが私たちの住まう外在的な現実の単なる引き写しに過ぎないということは有り得ないし、仮に有り得たとすれば、それは文学「作品」であるというよりも、単なる叙事的な作文に過ぎない。

 作品というのは曲がりなりにも一定の自立した輪郭を備えていなければ、作品として認められない筈であり、現実の単純な転写が、つまり私たちの日常的な価値観を通じて模写されただけの退屈な現実の写し絵が、作品の名に値する強度と自立性を獲得することは原理的に有り得ないだろう。だから、現実の単なる模写ということは、少なくとも文学作品の領域においては存在することが出来ない訳で、従ってあらゆる文学作品は現実を異化するような性質、或いは機能を孕んでいるということになる。つまり、総ての文学作品は、私たちの慣れ親しんだ日常的な現実の表層を捲ったり、埋もれていた深層を清新な角度から照らし出したりすることにおいて、本質的に「ファンタジー」なのである。

 その意味では、架空の異世界を舞台に据えたり、突拍子もない魔法や技術が飛び交う街並での冒険活劇を描いたりすることだけが、ファンタジーというジャンルの特質ではないという結論に到達することになる。以前にも何かの記事に書いたような気もするが、嘗て中東に暮らす少年の生活に就いて書かれた新聞記事を読んだことがあった。片仮名で綴られた異国の名前、そして描写されている異国の生活と風俗、それらの組み合わせは、厳正な客観的報道の所産であるにも拘らず、私の眼には殆どファンタジーのように映じた。言い換えれば、それは私にとって与り知らぬ現実の側面を文字によって表現したものであった。つまり、単なる外国文学でさえも、つまり異国の土地においては単なる写実的な小説として受け容れられる類の作品でさえも、受け取る側の立場が異なれば、それは充分に「ファンタジー」としての性質を帯び得るのである。

 私たちは、物語の表層的な部分だけを捉えて、その作品を「リアリズム」や「ファンタジー」へと腑分けする素朴な習慣にすっかり馴染んでしまっているが、そのような区分が極めて便宜的なラベリングであることを失念すべきではない。本来的には、あらゆる芸術は現実の「異相」を露わにするという意味で「ファンタジー」なのであり、そうでなければ芸術が私たちの精神に深甚な影響を及ぼすことは有り得ないのである。だから、ファンタジーという言葉を極めて皮相な意味合いで理解すること、例えば「児童向けの作品」であるとか「架空の異世界を舞台にした作品」であるとか、そういう型通りの定義で受け止めるのは、とても勿体ない話なのだ。そもそも、そうした区分は非常に恣意的で、単なる目安のようなもので、本格的な「定義」に関わる思考の所産ではない。ファンタジーとリアリズム、それを区分するものの正体は酷く曖昧で、不鮮明な状態に留め置かれている。例えば村上春樹の作品群において「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」はファンタジーであり、「ノルウェイの森」はリアリズムである、といった皮相な区分が罷り通るのは、本当に不毛な議論であり、如何なる生産性も持ち得ない空虚な思索に過ぎないのである。