サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

なぜ青年はナイフを欲するか 村上春樹「ハンティング・ナイフ」について 2

どうもサラダ坊主です。

前エントリーの続きです。

 

二 なぜ異邦人だけが登場を許されるのか

 

この作品の舞台となる土地の固有名は、作中においては明示されていない。然し、作中を横切る様々な記述の断片を縒り合わせて、或る仮説を組み立てることは、不可能ではない。

 

 ブイの上空は米軍基地に向かう軍用ヘリコプターの通り道になっていた。彼らは沖合からやってきて、ふたつのブイの真ん中あたりを通過し、椰子の木の上を越えて内陸の方へと飛び去っていった。パイロットの表情まで見えそうなほどの低空飛行だった。緑色の鼻先からは、昆虫の触手のようなアンテナがまっすぐ前方に突き出していた。でも軍用ヘリコプターの行き来をべつにすれば、そこは今にも眠り込んでしまいそうな、静かで平和な海岸だった。誰にも邪魔されず、のんびりと休暇を過ごすには、うってつけの場所だ。

 

 この舞台設定は、有り触れた日常的な表現の累積のように見えるかも知れない。言い換えれば、この記述に作品の内在的構造性の痕跡を読み取ろうとする努力は、不自然な行為であるかのように思えるかもしれない。然し、作品が誰かの意図に基づいて組み立てられた「被造物」である以上、そこに偶然や恣意を見出して事足れりとするのは、読者の怠慢と言うべきであろう。我々は、作者が意識していたかどうかに関わらず、その作品世界に内在している「欲望」を捉まえねばならない。作品の内部に偶然はなく、総てが何らかの基準に則った必然的論理によって構成されている。その原則に立脚して、我々は作品の「摂理」を読み取らなければならない。

 この一節において重要なのは「米軍」という明示的記述であろう。この作品の舞台が仮にアメリカであるならば、国内の基地に発着する軍用ヘリコプターに態々「米軍」という注記を組み入れる必要はない。もっと言えば、それが「米軍」の「軍用ヘリコプター」であると明示しなければ、この作品の表層的な説話構造が瓦解するという訳ではない。にも拘らず、こうして「米軍」という単語が複数回に亘って登場させられるのは、それが重要な意味を、或いは暗喩としての機能を担っていることの証左であろう。

 何故、端的に「静かで平和な海岸」であることを伝える為だけに記述が編成されないのか。何故、そこに「米軍」という硝煙臭い形象が混入されねばならないのか。此処には作者の意図が暗礁の如く秘められて、その突端を海面に露出している。この記述は、作品全体の曖昧模糊とした説話構造の裏側に潜む「絡繰」を暗示している。「米軍」の存在と「静かで平和な海岸」との間に存在する或る因果関係を指し示す為に、この描写は導入されているのだ。言い換えれば、この「静かで平和な海岸」「のんびりと休暇を過ごすには、うってつけの場所」という作中の時空を成立させている現実的な力が「米軍」という軍事力によって担保されていることの、間接的な、控えめな表現なのである。そして、それが「中国軍」でも「ロシア軍」でも「イギリス軍」でもなく、飽く迄も「米軍」として記されていることの背景にも、我々の視野は届かねばならない。「東京」から来た旅行者である「僕」と、「米軍」によって安全を保障された「静かで平和な海岸」との関係を見るならば、それが日米の関係性に関わる暗喩的な置換であることにも、考えは及ぶであろう。

 この作品において「アメリカの影」は重要な役割を担っている。作中で語られる土地の固有名は「東京」を除いて「ヴェトナム」「ロス・アンジェルス」「ソルトレーク・シティー」「クリーブランド」など、悉くアメリカに関連したものばかりである。既に述べた通り、米軍に関する記述も散見する。そして、その「アメリカの影」を最も明確に象徴するのが、「僕」が沖合のブイの上で遭遇する「見事に太ったアメリカ人の女」であろう。

 

「私は軍の家族専用のホテルに泊まっているの」と女は言った。

 僕はそのホテルを知っていた。海岸からは少し離れたところにある。

「兄が海軍の将校で、遊びに来ないかって呼んでくれたの。海軍も悪くないわよ。食いっぱぐれはないし、いろんな施設が充実しているから、こういう余得もあるしね。私の学生の頃はヴェトナム戦争たけなわで、身内に職業軍人がいるっていうだけで肩身がけっこう狭かったもんだけど、世の中ってけっこうかわるわよね」

 

 なぜ「僕」はブイの上でアメリカ人の女と思いがけぬ遭遇を経験するのか。海軍の将校を兄に持ち、別れた亭主はヴェトナムに二年いた海軍航空隊の軍人であったという、彼女の如何にも「米軍」と関係の深い経歴の設定は、何を意味しているのか。

 この作品の舞台に戦争を明示する出来事は何も起きない。然し随所に、米軍に象徴される武力の痕跡が刻まれている。言い換えれば、この作品世界は「米軍」の存在によって成立する「平和」を形象化した世界なのだ。そこには紛争も対立もない。明示された宿敵も登場しない。彼らは単に「静かで平和な海岸」での休暇を愉しんでいるだけだ。

 こうした風景から、例えば在日米軍基地の過半が集中的に立地し、観光が重要な産業の柱となっている土地、即ち沖縄の光景を想起するのは、自然な成り行きであろう。勿論、この作品世界を「沖縄」という固有名と必ずしも結び付ける必要はないし、今ここで私が想起する「沖縄」は、現実に根差した「沖縄」ではなく、日米の関係の特異な結節点を表す象徴としての「オキナワ」である。

 そして、この象徴的な「オキナワ」において重要なのは、登場する人物が、地元に根差した「沖縄」の人々ではないという点に着目することである。言い換えれば、此処には「占領者」と「旅行者」しかいない。車椅子の青年も、この土地の人間ではない。一時的な滞在者、オキナワという土地にとっての「異邦人」しか、作中に登場せず、地元の人間という存在が完全に捨象されているという事実は、この作品の内在的な原理性を示している。ブイの上の先客が地元の人間であっても全く奇異ではない場面で、アメリカ人の太った女という形象が現れるのは、この地元の人間の不在という特質が意図して作られた仕組みであることを物語っている。

 もっと言えば、作中の「オキナワ」はその歴史的な現実性を奪われた世界であり、固有性や主体性を排除された領域なのである。抑圧された歴史的固有性の上に築かれた「静かで平和な海岸」は支配の徹底性を暗示している。そして、抑圧され、自由な行動を制限され、支配者たる米軍の影ばかりが目立つ、この作品世界の構造は、そのまま車椅子の青年とその母親という形象に転写されているとも言い得るのだ。内在的な自己と外在的な命令の分裂が、その形象の有する象徴的な意味である。

 この観点から逆算するならば、ナイフという物体の持つ意味的な効果も、読み替えられることになる。もっと広い視野に基づいて眺めるならば、ナイフとは原爆投下の記憶も含めた「米軍」という武力の象徴であり、そのナイフが突き立てられた記憶の柔らかな肉とは、本土決戦が行なわれた七〇年前の「沖縄」と、占領を通じて建設された「在日米軍基地」の暗喩である。

 車椅子の青年が、家族というシステムの要請に基づいて、様々な土地を盥回しにされていることも、その抑圧された歴史的固有性の姿として捉えられるであろう。

 

「みんなが決めるわけです。あそこに一ヵ月いなさい、こっちに一ヵ月いなさいってね。そんなわけで、僕はまるで雨降りみたいに、あっちに行ったり、こっちに来たりしています。正確に言うと、僕と母は、ということですが」

 

 このような主体性の禁圧は「沖縄」が米軍によって占領された土地であることと、無関係とは思えない。言い換えれば、車椅子の青年という形象は「沖縄」という領域が強いられた屈曲を指し示すものなのだ。そして、車椅子の青年を「沖縄」と見立てるならば、必然的に彼の母親は「日本」=「本土」ということになる。何れにせよ、彼らは或るシステムの内部で、抑圧され、支配される位置に留め置かれている。彼ら母子をそのように支配するものが「アメリカ」であることは最早、論を俟たない。そのシステムの名を「日米同盟」と呼ぶのも、推論の必然である。

 

「僕の頭の内側で、記憶の柔らかな肉に、ナイフが斜めに突き刺さっています。とても深く刺さっています。でもべつに痛くはありません。重みもありません。ただ突き刺さっているだけです。僕はそれをどこかべつの場所から、他人事のように眺めています。そして誰かにそのナイフを抜いてもらいたいと望んでいます。でも誰もそんなナイフが僕の頭に刺さっていることを知りません。僕は自分でそれを抜こうと思うのですが、僕は自分の頭の中に手を入れることができません。それは不思議な話です。突き刺すことはできたのに、抜くことはできないんです。やがてそのうちに、いろんなものがだんだん消え失せていきます。僕自身も薄らいで消えていきます。そしてあとにはナイフだけが残ります。ナイフはいつも最後まで残るのです。まるで波打ち際に白く残された古代生物の骨のように……。そういう夢です」

 

 この「ナイフ」を沖縄に穿たれた楔としての「基地」と読み替えるならば、この青年の独白は「オキナワ」という領域の二重の屈従を表すものと捉えることができる。「アメリカ」に対する屈従と「日本」=「本土」に対する屈従の双方を「オキナワ」という領域は現実に生きているのである。

 誰かに抜いてもらいたいのに、誰も「僕」の頭の中にナイフが突き刺さっていることに気付かない。この周囲の無関心は、沖縄に基地が偏在している現実に対する日本=本土の無関心に通底するものがある。この無関心にさえ屈従を強いられている現実が、恐らくは青年の内面に或る度し難い衝動を胚胎させている。それがナイフへの欲望として構造化されているのではないか。つまり、再び問いは原点へ立ち返るのだ。なぜ青年はナイフを欲するのか。それによって何も傷つけないと言いながら、なぜ彼はナイフを入手し、それで何かを切ってくれと頼むのか。

 ナイフ=基地という見方は、定義を狭めすぎているかも知れない。なぜなら、それでは青年がナイフを望むことと辻褄が合わないからだ。やはりナイフは一つの総合的=一般的な「武力」の象徴として解するべきであろう。然し、彼は明らかに狩猟用の強力なナイフを手に入れながら、誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりする為には用いないと言明する。この言明は、何を意味しているのか。なぜ、敢えてそのように附言しておく必要があるのか。

 

「どうだろう」と僕は言った。「小さいか小さくないかは、それを何に使うのかによって違ってくるでしょう」

「たしかに」と彼は言った。そして何度か、自分に言い聞かせるように肯いた。「たしかにその通りだ。それを何に使うのかによって、話は変わってきます」

 

 この意味ありげに強調された描写から、暴力=軍事力の運用に関する凡庸な議論の構図を引き出すことは容易である。例えば、原子力の平和的利用という観念が声高に語られる。それは原発の技術が、核兵器に転用し得るものであることを背景にした議論である。或いは、銃社会のアメリカを例に挙げることも出来る。銃は自衛の手段として絶対に欠かせないという議論は、未成年による銃の乱射事件が止まらない社会の現実と隣接しながら、唱えられているのだ。諸刃の剣という言葉に象徴されるように、武力はそれ自体では、善悪を問えない。ナイフのように殺傷力のある危険な物体でさえ、使い方さえ守れば社会の秩序の内部で流通することが容認される。その純粋な物体、絶対値のように符合を持たない物体に善悪の標識を附加し得るのは、人間の精神だけである。それ自体は、如何なる意味とも無縁の孤立した物体であり、尚且つ無機的な自然の一部である。そこに意味を与え、善悪を論じるのは、無機的な自然ではなく、人間の情念と理知に課せられた仕事なのだ。

 更に言えば、我々は戦後の日本を支配してきた或る擬制に眼を向けねばならない。自衛隊という強力な軍事力を持ちながら、交戦権を否定する憲法を掲げてきた戦後日本の論理と、前述した描写が匂わせる欺瞞的な意味合いは、紛れもなく酷似している。もっと言えば、彼の肉体的な制限、車椅子でしか歩行し得ない現実は、交戦権を否定する憲法第九条に抑圧されてきた日本の軍事力の実情を暗示するものではないか。

 

「ひとつお願いがあるんですが」と彼は言った。「これで何かを切っていただけませんか?」

「切るって、たとえば何を?」

「なんでもいいんです。まわりにあるものを、とにかくなんでもいいから切ってみてください。僕はこのようにずっと車椅子の上で生活していますので、僕に切れるものはどうしても限られてきます。だから僕のかわりに、このナイフを使って、あなたに何かを切ってもらいたいんです」

 

 このとき、語り手の「僕」と車椅子との青年の間に結ばれる関係性に、いかなる構図を被せ、いかなる定義を授けるべきであろうか。ナイフを欲する車椅子の青年=憲法第九条に束縛された戦後の日本と読み替えるならば、東京から来た旅行者である「僕」に相応しい役柄とは何なのか。

 或いは、このように考えられないであろうか。作中に登場する複数の非アメリカ人(尤も、車椅子の青年とその家族の人種や国籍は明示されていない。但し、ブイの上にいた肥満体の女性が態々「アメリカ人」と名指されていることを鑑みれば、この母子をアメリカ人と看做さなければならない理由もないということになる)たちは、日本の複相的な表現であると。彼らは各々、日本という国家の内なる現実の或る限られた断面を形象化したものではないか。それらは空間的にも時間的にも、異なる位相に位置付けられた日本の側面であり、二人の対話は日本という国家の分裂した形態に関わるものなのだ。その内なる分裂と乖離は、日本という国家がアメリカに対して懐いている複相的な感情の顕現であろう。

 車椅子の青年が、東京から来た日本人の旅行者に託した願いは、何を意味しているのか。言い換えれば、車椅子の青年と東京から来た旅行者は各々、如何なる日本の側面を形象化しているのか。

 ナイフによって人を傷つけたりする積りはないという青年の言明は、保有する軍事力によって交戦権を行使したりする積りはないという日本国憲法の言明と相同である。然し、彼が「僕」に何でもいいから何かを切ってくれと依頼することからも読み取れる通り、彼の内面には武力の行使に対する渇望が宿っている。此処から振り返れば、彼は飽く迄も肉体的な制限に縛られているだけで、その渇望は制限さえ取り払われるならば容易に現実化する危険性を有しているのだと、看做すことができる。

 もう一度、議論を整理しよう。車椅子の青年をオキナワの象徴と捉え、東京から来た旅行者である「僕」を日本=本土の象徴と捉えるならば、どうか。青年を呪縛するものは、憲法第九条であると同時に、その草案を作ったと言われるアメリカ、もっと言えば沖縄に駐屯する在日米軍の兵力であると言い得る。言い換えれば、青年はオキナワのシンボリックな形象として、日本政府の形象とも言い得る「僕」に武力の行使を依頼しているのだ。然し、それは単にアメリカを排撃し、米軍を追い払えといった攘夷の思想を指すものではない。繰り返すが、彼は人を傷つけないと明言しているのである。にも拘らず、彼は武力の行使を「僕」に懇願する。それによって青年=オキナワは、如何なる渇望を満たし、如何なる目的を実現しようと企てているのであろうか。

 青年のナイフに対する執着が、「記憶の柔らかい肉に突き刺さったナイフ」の夢と密接に関与していることは明瞭だが、その夢の内容とナイフに対する度し難い渇望が、どのような論理を経由して結ばれているのかを読み解くのは、簡単ではない。記憶に突き刺さったナイフ、それを現実の世界で、有り触れた凡庸な物体としてのナイフを手に入れることで、彼の内なる欲望はどのように癒されるのか。それは何の代償なのか。