サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「面白さ」とは「理解し難さ」である 乾石智子「夜の写本師」

 どうもこんばんは、毎度お馴染みサラダ坊主です。

 本日無事に読了しました乾石智子さんの「夜の写本師」というファンタジー小説について書きます。

 2011年に発表され、著者の出世作となったこの小説は、巷間に蔓延る凡百の安っぽいファンタジーとは一線を画した、典雅で芳醇な風合いの仕上がりとなっています。私見ですが、この作品の最大の長所は「異界の手触り」の濃密さにあります。独特のリズムを備えた文体で次々に描き出される異界の風俗は無論、現実の西欧や中東の歴史的な光景から多くの材料を得ているに違いありませんが、そこには明確に「幻想」「伝奇」の感触が漲っています。単に架空の異世界を舞台に据えただけで、私たちの住まう現代日本の卑近な事実から様々な要素を引っ張ってきて、流用している安手のファンタジーとは、風格というか「真剣さ」が段違いであるという印象を受けました。

 しかし、この作品が万人受けするタイプの小説でないことは、予め附言しておいた方が親切かと思います。「幻想」の醍醐味を豊富に含み、紡ぎ出されるイメージにも美しい奇想がふんだんに織り込まれた得難い和製ファンタジーであることは間違いないのですが、だからこそ、この作品を素直に享楽し得る読者の層というのは必然的に限られてしまうのではないかと思います。何より一番の理由は、その癖の強い文体にあります。

 ネット上でも、本作品の文章に「日本語としての適正さ」が欠けている箇所があるという指摘を見かけたことがありました。気にならない方は気にならないのでしょうが、確かに厳密に読み込んでいくと意味の掴み辛い措辞は少なからず散見します。それを「イメージの混濁」と捉えるかどうか、要するに作者の眼に「異界のイメージ」が明晰に映じていないから、それを描写する言葉も乱れて適切に焦点を結ばないのではないか、と看做すかどうかは無論、個人の自由です。確かなのは、この作品において採用された文体、書き手の語りのスタイルが、誰にとっても分かり易く明快であることを必ずしも重んじていないように見える、ということだけです。

 しかし私は、このような独特の文体、必ずしも日本語の文章として流暢ではなかったり、或いは言葉だけが先行し過ぎて描き出されるべきイメージとの間に整合性が見出せなかったりする作者のユニークな語り方を、それが「端正な日本語ではない」という理由に基づいて断罪するのは、文学作品に接する者の審美的な方針として幾らか偏狭ではないかと考えます。或る空想上の「異世界」を設定し、それを簡潔で明快な措辞で丹念に書き取れば、傑作ファンタジー小説が一本仕上がる、という風に工程表を想定してみるのは、読者の個人的且つ恣意的な判断に過ぎません。総ての小説の著者が、読み易く明快な文章で作品を書き綴らなければならない理由など、本来どこにもないのです。無論、商業的な観点から、広い範囲の「顧客」に理解してもらえるような対策を打つのは、収益の確保を目指す限り、或る程度は必要な措置でしょう。世の中には、誰にでも読み易い文章で書かなければ、小説を書く意味などないと信じている著者の方もおられるのかもしれません。しかしそれは一つの個人的な信条であるに過ぎず、その方針があらゆる作品に適用されるべきであると思い込むのは、悪しき教条主義の一例に他ならないと私は考えます。

 私は寧ろ、乾石さんの独特なリズムを備えた語り口こそが、この「夜の写本師」という幻想的なフィクションに確かな「異界の手触り」を付与することが出来た最大の要因ではないかと思っています。もっと言えば、このような「異界」を描き出す小説が、その「異界性」を精彩に富んだものに仕立て上げる為には、私たちが日常生活において用いている素朴なリアリズムのコードを破壊する必要があるのではないかと考えるのです。濃密な「異界性」を経験するということは言い換えれば、私たちの日常的な経験から隔絶した世界に分け入るということですから、その「異界」の探索が、手持ちのコロキアルな語法に頼るだけでは自ずと限界を迎えることは、論理的に自明の成り行きです。日頃、日常会話などで用いている口語の論理だけで、或いは小説という領域において一般化=標準化されている「小説的な語法」だけで、新たな「異界」の扉を押し開けることは不可能であるに決まっています。綴られた言葉と、その言葉が指し示すイメージとの間に「意味の乖離」「意味の接続不良」を見出してしまうのも、「夜の写本師」という小説を読解することが「異界への想像的没入」である限り、避け難いことなのです。

 そもそも、小説というもの、或いは文学というものの魅力が「未知の世界に触れること」「未知の事柄を学ぶこと」であるならば、対象がファンタジーであろうとなかろうと、私たちは「異界」を探索しているのであり、私たちが読書を通じて感受している想像的な歓びも「異界性」の産物であると言えます。架空の世界を舞台にせずとも、例えば日本から遠く離れた中近東で起きている様々な政治的混乱や社会的闘争でさえ、現代に生きる平均的な日本人にとっては「異界」に他ならないのです。だとすれば、イラクやシリアやパレスチナアフガニスタンの政情に関する詳細な報道を読解することも、「夜の写本師」というファンタジー小説を堪能することも共に、「異界性の経験」であるという点に関しては同義なのです。

 「異界」を経験するということ、現実的であれ、想像的であれ、日常とかけ離れた「異界」へ踏み込むということは、従来の価値観や思考の手順を切り替えるということであり、そうしたチューニングを要求するからこそ、読書という営為は人間の精神を賦活する重要な興奮剤となり得るのです。それが面倒なのは当然ですが、その面倒を「快楽」に変えられるのが人間という生き物の「可塑性」なので、そこは歯を食い縛って挑戦してみるしかないでしょう。つまり、私たちが感じる「面白さ」というのは本来「理解し難いものに触れる」ということなのであり、文章が流暢であるかどうか、慣用句の使い方が適切かどうか、などの論点は作者も読者も気に病む必要はないのです。それは枝葉末節の瑕疵に過ぎないのですから。慣れ親しんだものに囲まれて感じるのは「面白さ」ではなく「安心」です。読書というのは所詮、生傷を負うこともない架空の経験でしかないのですから、自己完結的な「安心」ではなく、精神的な成長を促す刺激的な「面白さ」を追い求める冒険を志したって、何も失うものはないと思います。

 脱線に脱線を重ねてしまった結果、この作品の具体的な内容に触れるタイミングを逃してしまいましたが、今夜はこれで閉店致します。御清聴ありがとうございました! 真夜中のサラダ坊主でした!

 

夜の写本師 (創元推理文庫)

夜の写本師 (創元推理文庫)