サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

運命論の効用について

 物事には必ず原因と結果があり、その関係性を正しく緻密に把握することが出来れば、或る条件を入力することで常に同一の結果を出力することが可能である。

 このような自然科学的な発想の形式が、明治以来の慌ただしい近代化を遂げた私たちの国家においても自明の哲理として重んじられていることは言うまでもないし、その哲理の普遍性=汎用性に独善的な異論を唱える心積もりもない。生真面目な科学者たちが日夜研究室に入り浸り、苦心惨憺の努力を地道に積み重ねて、或る科学的な「真理」を解明することに貴重な人生の過半を捧げている現実は、日本人に限らず世界中の「人類」の利益に資する偉大な功績であるに違いない。その「厳密さ」は、私のように無学な庶民が想像しているものとは比較にならないほどの神経質な管理によって支えられているのだろう。科学の世界では「反証可能性」や「再現性」といった観念が尊重され、どんな実証主義的な「真実」も、何れは覆されるかも知れないという緊張感に満ちた集団的合意の支配下に置かれている。

 だが、世間一般に流通している「合理的思考」の理念は、そのような自然科学的厳密さに裏打ちされた「因果論」の偏執的なリアリズムとは一線を画しているように見える。例えば読者の方々にも心当たりのある話かも知れないが、所謂サラリーマンの世界でも、こういう「合理的思考」の稀釈された様態というのは洪水のように氾濫しているものだ。あらゆる企業は、その崇高な経営理念とは別個の次元で、収益の最大化と持続的成長という絶対的な規範を内包している。人を雇って商売をしている堅気の企業ならば普通、潰れたら潰れたで別に構わないと考えて日々、事業を営むということは有り得ないだろう。どんな会社も永続的な成長を夢見て、社会からの賞賛に憧れて野望を滾らせているものであり、その中では当然「利益を上げるためにはどうすればいいか」という至上の命題が真剣な考究の対象として祭り上げられている。そのこと自体は別に奇異ではないし、咎められるべきことでもない。

 その目標を達成するために、例えばPDCAサイクルという使い古された観念がある。この「起承転結」にも似た簡素化された思考の手順化は、一見すると自然科学的な実証主義と同じ釜の飯を食って育ったイデアであるように感じられるが、その精度に関しては巨大な疑問符を附与しない訳にはいかない。無論、このような手法が発案され、様々な企業活動の現場において重用されている背景には、相応の歴史的な背景が存在しているのだろう。人間が或る目的を成し遂げるために、何らかの具体的な手法を探求するのは当然の成り行きであり、それが一層の標準化と汎用化を目指して抽象的な論理の体系に昇華されていくのも平凡な傾向だと言える。だが、こういう考え方は本来、厳密に運用されなければ有用な成果には結びつかない筈であり、況してや学術的な厳密性よりも短期的な「結果至上主義」に傾斜せざるを得ないダイナミックな経済活動の最前線では、このような実証主義的な「改善」が時に全く不毛な憶測の累積へ堕落してしまうこともあるのが、巷間の実情ではないだろうか。

 会社というのは直ぐに「改善しろ」と言いたがる生き物で、特に業績が傾いて冷や汗が止まらなくなると益々喚き立てるように「改善」を錦の御旗の如く振り翳したがるものである。そのとき、当然のことながら「原因」と「結果」の関係性が検証され、その検証に基づいて有効な「対策」が案出される訳だが、実際の現場では、この「検証」というのは随分と主観的な認識の産物である場合が珍しくない。突っ込んだ分析を試みている積りでも、往々にして薄っぺらで貧相な「原因」しか見出せないのが、世間一般の「庶民」(無論、私を筆頭にということだ)の限界というものだろう。

 だが、企業活動は「真理」よりも「成果」を重視することが鉄則であるから、検証の過程が曖昧で対策が的外れな場合であっても、その「対策」と望ましい「成果」が偶然に同期したとき、浮足立って両者の「相関性」を崇高な「真実」であるかのように持ち上げてしまうことが、意外と頻繁に起こり得る。たとえ「真理」に行き当たらなくとも、或る「対策」が「成果」と時間的に同期してしまえば、それで「検証」の整合性は済崩しに認められてしまうのである。そして、そのときに結果から逆算して認められた「成功の方程式」が、幾度も的外れな適用を反復されるうちに、徐々に当初の輝きを奪って却って足枷のように企業活動の健全な成長を阻害し始める。「成功体験に囚われるな」という金言は、このような現実に対する解毒剤として処方されているのだが、そもそも「成功の方程式」自体の論理的整合性が疑わしいのだから、このような金言を慌てて内服したところで感性的な精神論の域を出ない。そこには実証主義的な思考の成果など存在せず、単なる体力勝負の「トライ&エラー地獄」が広がっているだけだ。それが無条件に「悪い」とも思わないが、馬鹿馬鹿しいと感じる日が偶に訪れるのも「人情」の正当な働きだろう。

 そもそも、こういう近代的な合理主義の精神が、闇雲な拡大的適用に相応しい考え方でないことは誰の眼にも明らかである筈だ。世の中の事象は、どんなことでも極めて複雑な諸条件によって規定されているのであり、ビーカーやフラスコの中の現象だけを観察するように、純粋培養的な発想で世間の出来事を解釈すれば、導き出される答えが頓珍漢なものになるのは当たり前の話だ。端的に言って、大半の営利企業が用いている「合理的思考」というのは「風が吹けば桶屋が儲かる」程度の浅薄な推論に依拠しているのであり、逆説的な言い方だが、それは科学的ではなくて「呪術的思考」なのである。雷の正体を電気ではなく天空神ゼウスの武器だと看做すのが「呪術的思考」であるならば、私たちサラリーマンが日常的に仕事場へ持ち込んでいる物差しの大半は「呪術」の産物であるに違いない。繰り返すが、私はその呪術性を侮っているのでも排撃しているのでもない。専門的な科学者が専門的な主題に関して厳密に適用する場合に限って、所謂「実証主義的思考」は有意義な発見を開拓するのであって、サラリーマンが自己啓発本の類から盗み取るように聞き齧ってくる様々な「思考法」が、自然科学的な検証と同等の精度を確保するなど、最初から無理な相談なのだ。肝心なのは、それらの日常的思考が端的に言って「呪術的思考」であることに明瞭な自覚を持つことであり、呪術的思考そのものの棄却を求めようとは、少なくとも私に関しては思わない。厳密な検証に厖大な時間を費やすよりも、盲目的な行動で活路を切り拓くべく奮闘した方が結果として「話が早い」ことが多いのも、経験的な事実であるからだ。

 重要なのは、私たちの日常的な思考が呪術的なレベルに留まるしかないことを理解しておくことであり、巨大な「運命論的構図」の内部に投げ込まれた受動的存在であることを思索の前提条件として採用することである。例えば世の中では「成果主義」という観点に立脚した人事制度というのが幅広く導入されており、そこでは個人の能力=成果と、それに対する報酬との間に連動性を与えるということが重要な経営上の「倫理」として信奉されている。だが、誰かの個人的な能力や行動と、それによって齎された事業的利得との間に「相関性」を認めるという発想は果たして、適正なものなのだろうか。例えば営業職の場合、その仕事の能力は「売上」とか「契約件数」といった明確な「数値」に置き換えられた上で評定の対象とされる訳だが、その営業職社員と「成績」との間に厳密な相関性を見出すことは原則として困難である。いや、世間的には考え方は逆であり、営業の場合は働きぶりが「売上」という数値で具体的に見えるから評価がし易い、というような論調さえ根強く蔓延している。だが、厳密に考えれば、或る「売上目標」の達成の可否が、或る個人の勤務内容だけで定まるなど、誤謬に満ちた推論の結果に決まっているではないか。無論、会社の上層部だって現場と同じく忙しいのだから、社員に対して確率論的な見方を適用せず(つまり、呪術的な思考で評価せず)、一挙手一投足を細密に調べ上げて「成果」との相関性を検証するなどという面倒な業務を遣り切る余裕はないに違いない。だから杜撰な「合理的思考」が大手を振って罷り通るのだ。しつこいようだが、私はそれが駄目だと言いたい訳ではない。それが「呪術的思考」に過ぎないことを忘れ去り、いかにも理路整然と「目標の設定」とか「有効な対策」とか「原因の解明」とか尤もらしい能書きを述べたがる一部の「成功者」に、生理的な嫌悪と軽蔑を禁じ得ないということを、愚痴のように書き留めているだけである。

 個人の卑小な力で、世界の構造を根底的に書き替えることは出来ない。私たちは自ら望もうと望むまいと、本質的には「運命論者」の看板を掲げる以外に途がないのだ。だが、それは決してニヒリズムに陥ることではないし、努力や試行錯誤の崇高な意義を踏み躙るものでもない。結果は運命に任せて、後は自分の信じる途を往くしかない。要するに「人事を尽くして天命を待つ」ということだ。今、改めて思ったが、こんな秀逸な俚諺が既に存在している以上、わざわざ私が出しゃばって、こんな陰気な記事を書く必要はなかったのではないか。だが、私が何をどのように書こうが、世界の側では微動だにしないのだから、書きたいと思ったことは何でも書けばいいようにも思う。要するに「個人」の力は卑小なのだから、「世界」の顔色など窺わずに自分の信じる途を淡々と歩み続ければいいのである。それ以外に、人間が望み得る生き方など存在しない。