サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(引き続き「ロリータ」・読書における一方的な信頼)

*先月からずっと、ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」を読み続けている。新潮文庫で漸く400ページの背中が見え始めた。ビアズレーという大学町での暮らしを引き払って、再び二人の壮大な逃避行が始まったところ、いよいよ本格的に不穏な臭気が漂い始めている。

 それにしても、ナボコフの紡ぎ出す文章の驚嘆すべき技巧性と、少女愛を巡る偏執的な描写の克明さには、脱帽する他ない。そして読み進めていくほどに、この「ロリータ」という小説が、通俗的なイメージとしての「変態小説」とは全く異質な文学的企図に支配されていることに、否が応でも気付かされていく。少女愛を巡る情欲に塗れたファンタジーの文学化という不毛な偏見は、成る可く捨て去ってしまった方がいい。手記の作者として設定されたハンバートの脳味噌は、性的な幻想に覆い尽くされているが、ナボコフ自身は如何なる幻想も許容しない、苛烈なリアリズムの精神を堅持しているように見える。本文と詳細な訳注との間を頻繁に往来する所為もあって、通読には猶更時間が掛かっている。自分に外国語を理解する能力があればいいのにと思いつつ、他方では、外国語を勉強している時間があるのなら、翻訳でも構わないからどんどん色々な作品に手を広げた方がいい、という風にも考える。恐らく今後も、怠惰な私は決して外国語の本格的な勉強には乗り出さないだろう。

 中学生だったか高校生だったか、洋書を読むことに憧れて、セメントで出来たブロックのように重たい英文法の教本を、高い金を払って買ったことがある。結局、殆ど読まずに筐底へ眠らせてしまった。母国語に限っても、その鬱蒼たる樹海の深奥まで辿り着くのに、今生だけでは足りない見込みであるというのに、外国語にまで手を伸ばす余裕などあるものか。無論、これは単なる自己弁護に過ぎない。例えばナボコフは、現代文学の古典の一つに数えられる「ロリータ」を、母国語である揺籃の如きロシア語ではなく、後天的に習得した英語で書いたのである。真の才能というものは、凡人の尺度では到底測り難い代物なのだ。

 

*「ロリータ」の泥濘に嵌まり込んで足掻いている立場でありながら、次は何の本を読もうかという考えが定期的に、私の脳裏を掠めては消えていく。先日、柄谷行人の新著が刊行されることを偶然に知り、即座にAmazonで注文してしまった。インスクリプトという出版社から間もなく発売される予定の「坂口安吾論」である。十代の頃から、柄谷行人坂口安吾も愛読してきた私にとっては、まさしく最高の組み合わせである。

 総ての作品を網羅するほどの敬虔な愛読者ではないが、柄谷行人坂口安吾は、常に特権的な地位を占める作家として、我が蒼穹に君臨し続けてきた偉大な存在である。柄谷行人の「意識と自然」も、坂口安吾の「堕落論」も、私にとっては特別な文章であり、それは現在の私という人間の精神的秩序の形成に少なからず影響を及ぼしている。そういう作家を有することは、紛れもない人生の歓びの一つである。

 私は彼らに、極めて個人的で一方的な「信頼」の感情を寄せている。彼らの書き物、彼らの訴え、彼らの告発と見解、彼らの信条には、無条件に同意を示しても構わないという偏倚した認識を持っているのだ。それは実際に、生身の人間としての彼らと接したときに、私が如何なる感想を覚えるかという問題とは、異質な次元に属する事柄である。今まで幾度、彼らの文章に刺激を受け、精神を鼓舞され、明るい展望のようなものの手懸りを与えられてきただろう。成程、確かに彼らの著作は、私の卑近な実生活そのものには、如何なる建設的な役割を果たすこともなかった。仕事や家庭の問題を、彼らの著作の繙読によって乗り超えたことはない。何故なら、俗塵に塗れた諸問題は悉く自分の手を動かすことでしか解決しないのが、世間の相場というものであるからだ。

 だが、書物は行動を変えずとも、精神を変えることが出来る。それは実用的なマニュアルとは異質な次元で、人間の実存に決定的な影響を及ぼすのである。その根源的な変容が結果として、実生活における様々な具体的判断の礎のような役割を担うことは、充分に起こり得る。この世界を如何にして捉えるかという問題は、最終的には「この岐路を右折すべきか左折すべきか」という些末な問題に関する判断さえも動かすようになるだろう。その意味で、必ずしも実用的であるとは言い難い彼らの著作は、根源的な次元においては頗る実用的であり、その効果も圧倒的なのである。

 

*特定の作家を全面的に信頼するということは、容易な所業ではない。だが、そういう作家の候補を増やすことは、長い目で見れば人生の資産を培うことに通じる。前述した二人の作家に加えて、私は三島由紀夫にも特別な関心を持ってきた。その関心の主要な対象は、三島の批評家的側面である。

 彼の書き遺した批評的文章の明晰さは、驚嘆すべき水準に達している。しかも、その明晰さは学者的な堅苦しさとは無縁であり、艶やかな官能的色彩を加えた法律家の文章といった感じで、硬質な論理性が柔軟な文学的装飾に包まれて、絶えず皮肉な機智が銀鱗の如く飛び跳ねている。「小説家の休暇」(新潮文庫)のような、フランスのモラリストを思わせる、人生や芸術に関する断片的な省察の鋭さと余韻は、天下一品である。

 「ロリータ」を読了したら、三島の作品を集中的に読んでみるのも面白いかも知れないと、先日思い立ったところである。気紛れな性分なので、実際に着手するかは未だ疑わしいが、差し当たり「仮面の告白」から始めようという腹積りは仕上がっている。

 俄かに三島への関心が高まってきたのは、Youtubeで久々に新海誠監督の「君の名は。」の予告編映像を眺めたことが契機である。私は以前、このブログで「君の名は。」の感想を記事に纏めたことがあるのだが、そのときに考えたのは「恋愛の本質」という問題であった。私見では、恋愛という精神的様式は常に「不可能なものの希求」という性質を孕んでいる。それは二人の男女が「隔てられる」ことによって生じる欲望の形式であり、従って両者の関係が公的に成就した瞬間に「恋愛」という感情は終焉を迎える。その辺りの消息を、極めて人為的な設定の下に純化して抽出し、精細なアニメーション映像として定着させたのが「君の名は。」の魅力の核心ではないか、というのが、その記事の概略である。そこから不意に三島由紀夫の遺作「豊饒の海」を思い出したのだ。遠い昔、中学生の頃に、私はずっと憧れながらも手を出しかねていた「豊饒の海」の第一巻「春の雪」を購入して読み出した。三島の畢生の大作であり、それを書き終えて直ぐに自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたという血腥い挿話に彩られた、半ば「事件」のような長篇小説である。しかし、私は事前に懐いていた漠然たる憧憬を満たしてくれるものを、田舎臭い中学生には聊か難解に感じられる三島の端正な措辞の中に発見することが出来ないまま、志半ばで通読を抛棄してしまった。そういう十数年前の惰弱な自分の遺志を引き継いでみたいという考えも、此度の目論見には幾らか関係していると言って差し支えない。

 だが、先ずは「ロリータ」を読了することが肝心だ。遅くとも今月中には、感想文を投稿出来る段階まで辿り着きたいと思う。

坂口安吾論

坂口安吾論

 
小説家の休暇 (新潮文庫)

小説家の休暇 (新潮文庫)

 
仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 
春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

 

 

Cahier(「正解主義」・誤答・恐怖・奴隷)

*自分の外部に絶対的な「正解」が予め存在していると信じ込む態度を指して、私は「正解主義」という用語を提案したいと思う。

 正解主義者は、自分の内部に絶対的な規範や、譲れない信念というものを持たない。或いは、持っていても信じ切ることが出来ない。その為に、物事の価値を判断する尺度が「他人」の所有物となっている。言い換えれば、正解主義者は常に外在的な価値観に従属することを、自らに対して命じているのである。

 正解は外部にあり、自分自身の内側にある「答えらしきもの」は不完全な結論に過ぎないという否定的見解、これが正解主義者の精神を構成する主要な成分であり、思い込みである。一方、そうした自虐的認識の齎す反動的な効果として、外在的な規範に対して過度の執着を示し、無批判な盲信を抱懐してしまうのも、同じく正解主義者の顕著な特性である。このアンバランスな「認知の歪み」が如何なる個人史的経緯を踏まえて形成されるのかという問題に就いては、一般論を唱えても無益である。

 正解主義者の精神は「子供」の精神である。言い換えれば「学童」の精神である。親や教師が持っている「正解」の正当性を疑わず、素直にそれを受け容れ、自己の内的な規範の一部として消化してしまうのが、正解主義の特質である。そのこと自体は、少しも否定的な意味合いを有していない。何も知らない子供が、人間的成長の階梯を登っていく途上では、そうした「正解主義」の順応性と柔軟性は、重要な教育的効果を備えている。先賢の叡智に耳を傾けることの出来ない人間が、飛躍的な成長を実現することは出来ない。

 だが、飽く迄もそれが学童期に固有の精神的態度であることに留意すべきである。私たちの肉体的な加齢は自動的に、物理的な現象として営まれていくが、私たちの精神的な加齢は必ずしも自動的に進んでいくとは限らない。日本語には「馬齢を重ねる」という表現があるが、実際に同じ年齢の人間が同じ精神的境涯に達していると信じ込む為の根拠は存在しない。物理的な年輪が、自動的に精神の成熟を醸成する訳ではない。幾ら齢を重ねても、脆弱な幼児性を引き摺っている人間は、この世界に少なからず実在している。翻って、一般的に「青二才」と呼ばれる年齢の人間であっても、生半可な壮年では太刀打ちし難い強靭な精神性を宿していることは充分に有り得る。両者の境目は複数挙げられるだろうが、私は先ず「正解主義からの脱却」という言葉を、重要な命題として掲げておきたい。

 自分の内部に絶対的な規範を持ち得ないということは、少しも恥ずべき状態ではない。問題は、自分の内的な規範に対する不信と、外在的な規範に対する異様な敬意が、ぴったりと接合されている点に存する。自分の内的な規範が不完全であるならば、他人の内的な規範も同じく不完全なものであろうと推論するのが、成熟した「大人」の採用する基本的な原理である。しかし「正解主義」に憑依された「学童」は、そうした水平的構図を巧く受け容れることが出来ない。そこに根深く蔓延っている感情は「恐怖」である。何に対する「恐怖」なのか? 無論、それは「誤答を選ぶ」ことに対する「恐怖」である。

 正解主義者は失敗することを重大な過ちとして定義している。この定義が、近代的な公教育の枠組みの中で築き上げられた、極めて堅牢な桎梏であることは論を俟たない。正解主義者は「誤答」を重大な蹉跌として認識するように馴致されており、その手枷足枷は極めて強靭な制度として作用している。この桎梏を解除しない限り、正解主義からの脱却は決して進捗しない。

 彼らを支配している強迫観念は「失敗は許されない」というものである。そこには殆ど道徳的な感情が根深く関与している。恐らく正解主義者は、失敗することで厳しく叱責されたり、或いは「正答し続けること」によって厖大な社会的利益を獲得したりした経験を持っており、尚且つその経験が過剰に内面化されてしまっているのである。

 人間的成長の過程は必ず、外在的な「正解」に対する疑念を懐くように、当人に向かって要求するものである。知的にも感情的にも一定の発達を遂げた人間が、世間に蔓延する様々な「尤もらしい見解」に違和感を覚えるのは、自然な経験である。だが、極めて抑圧的な環境に縛り付けられていたり、或いは極めて順応的に振舞うことによって延命を成し遂げ、優良な社会的評価を確保したりしてきた人々にとっては、そのような批判的見解を有したり表明したりすることは、極めて困難な選択肢として映じるだろう。

 だが、それを口実として堅持し続けることが、正解主義者の幸福を一層深めることに繋がるだろうか? 常に「正解」だけを見抜き続けることを強いられた人間が、「誤答」という地雷を踏みかねない重大な「危険」を自ら冒す筈もない。彼らは「奴隷」であることに価値を見出している。誤答によって懲戒された人間が、絶えず他人の顔色を窺い、誰にも後ろ指をさされないように心掛け、懲罰を受けないように汲々とし続ける姿は、余りに憐れである。それは「無能な奴隷」の姿だが、だからと言って「正解」だけを選び続ける人間を称揚しても始まらない。彼らは単に「優秀な奴隷」であるに過ぎない。何れも外在的な正解を、内的な規範に優先させるという点で「敬虔な奴隷」であることには変わりがないからだ。

 正解主義者は先ず、何らかの「正解」が存在するという信仰から、自分自身を解放しなければならない。少なくとも、自分自身が絶対的に正しい存在として生きなければならないという不可解で傲岸な盲信を棄却せねばならない。正解主義者が如何に臆病な人間であったとしても、そこには正解主義者に固有の暴力性が必ず横たわっている。「誤答を選ばない」ということを常に優先する人間は、常に自分自身の正しさを点検することで精神的な安定性を確保しようと努める。そうした態度が既に「暴力的なもの」であることに誠実な眼差しを注がねばならない。

 正解だけを選択しようとする態度は、誤答を許容しないという点において暴力的であり、無慈悲である。重要なことは、誤答を経由することで正解の精度を高めるという一連の過程に存している。私たちは誰も絶対的で最終的な「正解」など有していない。何故なら、現世の真理は常に流動的なものであるからだ。未来永劫、常に革められることのない「真理」が存在するという考え方は、極めて重大な危険を含んでいる。それは古今東西、絶えず繰り返されてきた深刻な宗教対立の事例を徴するだけで直ちに理解し得る素朴な事実である。唯一神に対する信仰は、絶対的な「正解」に対する信仰と、構造的に同型である。言い換えれば「真理は常に自己に先行している」という命題が、そうした信仰を根源的に支える筐底なのだ。

 だが「真理は常に自己に先行している」という発想は、過度に敗北主義的な精神性に依拠している。本来、真理とは人間の手によって作り出されるものであり、それが人間の手で作られたものであるという事実が忘却されたときに限って、正解主義者を抑圧する危険なイデオロギーに転化する。

 正解主義者が先ず知るべきは、真理が形成される歴史的過程を学ぶことである。その真理が真理として定義されるに至った経緯を把握することは、真理の有する根源的な相対性を端的な事実として理解することに等しい。それは結果的に、或る事実に附与された真理性が、賞味期限のようなものに過ぎないことを、正解主義者の頭脳に刷り込むだろう。だが、正解主義者は往々にして「答え」にしか関心を懐かない。彼らは「答え」に到達するまでの過程を愉しむという成熟した趣味を持たない。考えることに対して怠慢な人間ほど、速やかに「正解」だけを欲しがるというのは、随分と厚かましい話ではないだろうか。何らかの疾患の影響でもない限り、自分の頭で考えようとしないのならば、自分が生きている意味はない。本稿の結論は、この一文に尽きている。

Cahier(方法・価値観・守破離・相転移)

*或る組織に属して労働に明け暮れる。年数が経ち、春が来る度に真新しい心身を携えた後輩が現れる。その繰り返しで、組織の新陳代謝のリズムは保たれ、旧弊な慣習にも徐々に罅割れが生じていく。

 或いは、子供が生まれる。夫婦だけの静かな生活に、喜ばしい波紋が生じる。右も左も分からぬ赤児が、日毎に大きくなり、出来ることが増えていく。

 何れの場合にも「教育」という問題は重要な意義を帯びている。何も知らない人間の真っ新な心に、様々な知識や手法が少しずつ刻み込まれていく。

 そのときに勘違いすべきでないのは、教育の本義とは「技術」や「方法」を伝えることに存するのではない、という点だ。本来、教育とは「価値観」の伝授でなければならない。価値観の伝授に比べれば、方法や技術の教育は枝葉末節の問題に過ぎない。

 こういう言い方に反発が寄せられる可能性は理解している積りである。不毛な精神論を唱えるだけで、何事かの教育を成し得たと誤解する愚昧な指導者の存在と権威に、辟易しておられる方も、世上には少なくないだろう。確かに、抽象的な観念を振り回すだけに留まらず、具体的な技術に就いて、初心者にも理解出来るように咬み砕いて説明する辛抱強さは、教育者の資質としては重要なものである。だが、具体的な技術の指導に終始して、その技術を支える理念や価値観に就いて何も語らないというのは、教育の在り方としては偏頗なものである。

 私は別に「方法」と「価値観」の何れを教えるべきかという二元論的な構図を描いてみせようと考えているのではない。抽象的な理念だけに偏しても、具体的な技術ばかりに特化しても、片手落ちであることに変わりはない。誰にとっても、これら二つの要素は一つの車の両輪である。

 ただ、何かを教え込んで、可能な限り早く実践の役に立てようと急く余り、肝心の理念や価値観を省いて、具体的な手続きだけを機械的に暗記させるのは本末転倒である。技術の習得そのものは、理窟で覚えるより、肉体的に浸透させた方がいいに決まっている。肉体に浸透した技術でなければ、それは実践の現場で活きないからである。だが、そうした肉体主義を過度に信奉することは、思考の硬直を招き、延いては成長の停滞に帰結することになる。物事には必ず背景があり、その背景を理解しないまま、結果だけを丸暗記しても、それは人間の教育の方法としては余りにもインスタントである。

 肉体的に覚え込んだ技術は確かに廃れない。そして、迂遠な理窟を介さずに運用される技術が、所謂「現場」の円滑な運営に欠かせないものであることに就いては、私も同意する。しかし、そうやって一つの肉体的な形式にまで高められた技術が、技術そのものの「更新」或いは「革新」を妨げる弊害となり得る懸念に就いても、関心を向けるべきであろうと私は考える。

 技術の肉体的な習得は、一つの形式的な枠組みの中に、自らの存在を押し込んで馴致する作業である。この「馴致」という作業は予め「正解」が存在することを前提に据えている。予め「正解」が定められていない状況で、或る技術を習得することは不可能である。若しも事前に「正解」の存在しない技術を習得することが可能であるとするならば、それは最早「習得」ではなく「発明」であり「創意」である。この差異は、ささやかなものに見えるかも知れない。しかし、この差異が決定的な意味を持っていることに注意を払うべきだ。

 技術の習得は常に「既存の枠組み」を受け容れることであり、その意味では、習得の主体は、常に既存の体制に対して受動的な立場を取ることを強いられる。そのこと自体の是非を断じても仕方ない。全くの門外漢が、或る領域や分野で一定の水準に達する為には、先賢の叡智を拝借し、その功績に便乗するのが最も合理的であるからだ。しかし、教育と成長には必ず「ステージの変更」が存在する。初心者も達人も、同じ枠組みや方法論で物事に処するという訳にはいかない。

 日本語には「守破離」という言葉があり、個人の成長の道程を表現するものとして広く人口に膾炙している。但し、これは滑らかな成長曲線を表現するものではない。寧ろ熱力学における「相転移」のようなものだと捉えた方が適切である。或る境目を越えた途端に「液相・固相・気相」の転移が生じるように、「守破離」のプロセスには非連続性が備わっている。

 事前に用意された「正解」に辿り着く為の適切な手順を理解することは、初学者にとっては重要な心得であり、技術的な目的である。だが、その段階に留まり続ける限り、初学者は「相転移」を喚起することが出来ないまま、何時までも「新人」の立場に拘束されることになるだろう。

 そのような閉塞を突破する為には、従来の技法の盲目的な踏襲を切り上げる以外に途はない。別の言い方をすれば、それは外部に「正解」を探すという受動的な立場を棄却するということである。事前に「正解」が用意されている筈だという子供らしい信仰は、既存の枠組みに対する批判的な意識を麻痺させるばかりか、そもそも「既存の枠組み」というような客観的な感覚さえも滅ぼしてしまうのである。誰かに投げ与えられた「正解」や、それに類する指標を鵜呑みにすることが、人間的な成長に繋がるという素朴な盲信に死ぬまで囚われている訳にはいかない。何処かで意識を切り替える為の「転移点」を確保すべきなのだ。

 その為には、既存の枠組みを包括的に捉えるような視野を手に入れる必要がある。如何なる種類の「正解」も、誰かの手で作り上げられた相対的な真実に過ぎず、歴史的な形成物に過ぎないという単純明快な「真理」を理解することから始めなければならない。その技術の背景を知ることは、それが形成される歴史的な過程を学ぶことに他ならず、そうした手続きを経由しなければ、私たちは「既存の枠組み」に対する絶対的な信頼を免かれることが出来ない。盲信を捨てない限り、私たちは批判どころか、真の意味で「信頼する」ことすら出来なくなってしまうのだ。

Cahier(三毒・懲罰への欲望・感情の制御・排除の論理)

*今日、と言っても日付が改まったので昨日の話ということになる。職場で少し腹立たしいトラブルがあり、久々に厳しい口調で通達を発した。些細なミスの積み重ねが生み出した状況に過ぎないことは確かである。私の指導と監督が不充分であったことも認める。ただ、一人一人の意識の低さが連鎖して持ち上がった問題であったことに、無性に苛立たしい気分を掻き立てられてしまった。

 怒りという感情は余り肯定的な取り扱いを受けない代物である。仏教では「三毒」と呼んで「貪(強欲)・瞋(忿怒)・癡(愚昧)」の三つの悪徳を戒めているし、昨今では「アンガー・マネジメント」(Anger management)という心理療法プログラムが社会的な注目を集めている。怒りを制御することは、人間の成長において最も重要な心得の一つである。その意味では、腹立たしい想いに囚われるというのは、私の不徳の致すところであるだろう。

 所謂「パワハラ」(和製英語 Power harassment)という言葉若しくは概念が世間の常識に登録されて久しい現代の日本社会で、怒りを制御することの重要性と倫理的な要請は益々高まっている。ただ、怒りという感情そのものの存在を否定することは、場合によっては精神的な歪みを生み出す結果に繋がりかねない。重要なのは、怒りという感情を抹殺することではなく、その正しい使用法に習熟することであると言うべきだろう。どんなに悲惨で不合理な出来事に遭遇しても全く怒りを覚えない人間が、精神的に健常であるかどうかは議論の余地を有する。無論、怒りを覚えないに越したことはないし、怒りが正常な判断力や思考力を混乱させ、機能不全に導くことは、歴史的にも経験的にも証明された事実である。だが、そうした現実を極端な方向に解釈して「怒りを覚えること自体が罪悪なのだ」という命題を信奉するのは、必ずしも人間性に関する適切な省察の結果であるとは言い難い。

 私も過去の自分を振り返って、その驚愕すべき(或いは慨嘆すべき)短慮と愚かさに気恥ずかしさを覚えることがある。それを若さゆえの「血の気の多さ」だと強弁して、過去の自分を正当化するのは私の今も変わらぬ愚かさの証明である。他人の過ちを赦し難いものだと看做して興奮し、荒々しく劇しい罵言を用いて、当事者に懲罰を加えようとする異様な情熱に駆られる習慣は、今も完全には克服されていない。昔に比べれば遙かに穏当な言い方を選ぶ辛抱強さを身に纏えるようになったと自負しているものの、修行が足りていないことは厳然たる事実である。

 如何なる忿怒も排斥されるべきであるという極端な理想主義に、私は全面的な賛意を示すことが出来ない。それは如何なる犯罪に対しても懲罰を科すべきではないという極端な理想主義に同意することが出来ない、ということと同義である。懲罰そのものは、存在しない方が望ましいに決まっている。懲罰の不要な社会を建設出来るのならば、それが最も充実した理想郷であることは疑いを容れない。だが、そうした理想を想い描くことと、現実の世界で「懲罰」という仕組みが稼働していることの間に、潔癖な考え方に基づいて、恥ずべき矛盾を発見しようと努力する必要はないと、私は思う。無論、例えば「適切な懲罰」という考え方が極めて曖昧な基準に即していることを私は認める。それは「適切な軍事力」という考え方の根源的な脆弱さを想起すれば、直ちに理解し得ることであろう。人類の歴史は、暴力の適切な運用に失敗を重ね続けてきた。同様に、人類の歴史は懲罰の不正な執行を幾度も繰り返し、場合によっては無辜の善人を虐殺することさえも肯定してきた。その意味では、軽々に「適切な懲罰」或いは「適切な怒り」という理念を掲げるべきではない。しかし、軍事力=懲罰=怒りといった理念的体系を完全に廃絶することが、直ちに人類の幸福に資するとは言い切れない。

 日本語には「義憤」という言葉がある。この言葉に付き纏う根源的な危うさを否定しようとは思わない。「正義」の名の下に執行された数多の暴力が、単なる権力の濫用に過ぎなかった事例を、私たちは歴史的な地層の中に幾らでも探り当てることが出来るからだ。だが、如何なる不正に対しても怒りを覚えないのは、人間の目指すべき理想的な態度であると言い切れるだろうか?

 いや、こんな推論はまるで誘導尋問だ。場合によっては、怒りは有用であるという理窟を正当化する為の煽動のようなものだ。結局、怒りは己の人間的な度量の限界を示すものなのだろう。その意味では、怒りを否認することは一見正しい態度に見える。だが、怒りを否認すれば、その矛先は自分の臓腑を傷つけるばかりであろう。怒りを覚えたという事実そのものを恥じるべきではない。

*考えてみれば、様々な人間的感情の顕現を「否認」するべきか、それとも「肯定」すべきか、という問題は、必ずしも「忿怒」に限られた話ではない。何らかの理由で深刻な「悲嘆」に囚われたり、或いは望外の僥倖に恵まれた揚句、その歓びに深入りして享楽的な強欲に呑み込まれたりする場合もあるだろう。何れにせよ問題なのは、感情の発生そのものではなく、感情を制御し得るかどうかという点である。それは「怒り」の場合も「悲しみ」の場合も何ら変わりない。

 だが「感情を制御しなければならない」という倫理的な要請は実に容易く「感情を否定しなければならない」という極論へ転化し得る。こうしたストイシズムの亢進が、却って人間性の荒廃を惹起しかねないことにも、私たちは留意すべきだろう。「感情の否定」は即ち「事実の否定」であり、それは「感情の制御」という理性的な方針と、根本的に対立している。何故なら、理性的な方針は常に「事実の肯定」を本分としているからだ。「感情の否定」は、怒りを覚えている自分自身を心理的に抹殺するということである。だが、そのような「心理的自殺」が、本当に理性的な自我の構築に役立つと言えるだろうか?

 無論「事実とは何か」という根源的な難問が聳え立っていることは一応、私も承知している積りである。「事実」は、単に理性的であろうと試みるだけで手に入るほど、生易しい代物ではない。だが、少なくとも「事実」を把握しようと切実に望まない限り、理性的な精神は確保し得ない、ということは言えると思う。そして「事実」に対する認識の欲望を燃やさない限り、徒に「感情の否認」に赴いても無益であることは論を俟たない。

*小池代表率いる「希望の党」が、民進党所属の候補者に公認を出すに当たって、厳格な「選別」と「排除」に踏み切ったことで、当初の政権交代への期待は急激に縮小しつつあるように見える。小池代表が民進党からの合流希望者を丸呑みすれば、自民党に一泡吹かすことも可能だったかも知れないが、改憲と安保法制を踏み絵にした選別の結果、枝野氏を中心にリベラリズム的な「立憲民主党」が出来上がってしまい、当初の「反安倍」という旗幟が曖昧に揺らぎ始めている。

 これまで小池氏は自身の衆院選への立候補を否定してきた。それを「本音」として受け止めるべきなのかどうか、誰もが疑いの眼差しを向けていたように思う。敢えて方針を明確に示さないことによって、自民党に揺さぶりを掛けているのではないか、或いはマスコミや世間の関心を集める為に敢えて態とらしく本音を隠匿しているのではないか、と私も考えていた。だが、民進党を丸呑みすることで得られる「果実」を、自ら「排除」し始めた小池氏の言動を徴する限り、若しかしたら本当に国政選挙には打って出ない積りなのではないか、と感じられるようになってきた。

 民進党の人間を無条件に受け容れたら、首相指名の対象が前原氏に移ってしまうのではないか、という疑念を理由に挙げる識者もいるらしい。それも一つの説得的な見解ではあるが、民進党を丸呑みしない限り、倒幕の快挙は成功しないだろう。誰であろうと「反安倍」の旗幟の下に結集して、持ち前のパフォーマンスで無党派層を一挙に攫ってしまえば、盤石の自公長期政権も罅割れることは必定である。敢えて、そうした無節操な総力戦を自重するということは、言い換えれば現時点で、小池氏の側には総理の椅子を簒奪する意思がないのではないか、という風に思われてならない。

 或いは、政権奪取後に恐らく必然的に訪れるであろう「政治的な分裂」を警戒しているのだろうか。総選挙に圧勝する為に「烏合の衆」を形成しても早晩、空中分解することは眼に見えている。それでは意味がないと考えたのだろうか。

 或いは、とりあえず野党第一党の地位を確保し、憲法改正に向けて、自民党との協力体制を構築する腹積もりなのだろうか。その為には、弱体化しているとはいえ、リベラリズムの重鎮を擁する民進党を破壊しておく必要があると考えたのかも知れない。当初は丸呑みするような素振りを見せておいて、後から厳格な「選別」を始めるというのは、民進党に対する陰湿な悪意を感じさせる振舞いである。

 小池氏は「保守的な自民党と闘う女性革命家」の鮮烈なイメージを纏うことによって、都知事選に勝利し、都議会さえも掌握してしまったが、その政治的な思想信条は、必ずしも安倍政権との間に非妥協的な対立を作り出す性質のものではない。彼女が自民党と喧嘩を始めた最大の理由は、思想的な対立であるというよりも、自身の栄達ではないか。自民党に留まっていても首相に指名される見込みは極めて小さい。いっそ独立して、自ら「社長」の肩書を手に入れた方が、総理の椅子までの距離は縮まると計算したのかも知れない。そうだとしたら、驚くべき策士ということになる。

Cahier(正義・愛情・無底性)

*随分と昔に書いた「『正義』と『愛情』は相容れない」という表題の記事が、何の因果か、この「サラダ坊主日記」の注目記事の欄に突如として姿を現し、数日間、その状態を維持している。表題だけは漠然と覚えていたが、どういう中身の文章を書いたのかは、改めて読み返してみるまで殆ど思い出せなかった。それほど有用な事柄や知見が記されている訳ではない。そんなに熱心に読まれているようにも見えない。今までずっと、ネットの暗闇に埋没して半ば白骨化していたような記事なのだ。世の中の検索ワードの流行が変動して、たまたまアクセスが増えただけの話だろうと思う。

 「正義」も「愛情」も手垢に塗れた、昔ながらの言葉のように感じられるし、誰もが「正義」や「愛情」に就いて底知れぬ迷妄を抱え込むことを強いられていながらも、これらの単語を特に難解なものであるとは考えていない。「正義」は「正義」であり、「愛情」は「愛情」であると漠然と独り合点して、その曖昧な認識を疑ってみようとも思わないのだ。だが、昨今の世界的な情勢を鑑みるだけでも、如何に「正義」という抽象的な観念が、人類全体の精神と思索を乱暴に振り回し、毀損し、混乱に導き入れているか、その果てしない惨状を把握するには充分である。私たちは直ぐに持ち前の「正義」を懐中から取り出して、お気に入りのナイフのように振り翳し、混乱した現実に強引な解決を与えようと躍起になる。

 正義というのは、本質的に「客観」と「普遍」という二つの重要な礎石の上に聳え立つべき崇高な理念である。だが、そもそも「客観」と「普遍」という抽象的な観念自体、私たちの意識にとっては生々しさを欠いた透明な記号なのだから、そこに聳え立つ「正義」が不明瞭な輪郭しか持ち得ないのも当然の仕儀である。

 ここには深刻なパラドックスが常に介在している。私たちは或る行為や言説の「正しさ」を様々な方法で立証すべく尽力する。だが、如何なる「正義」も、総ての人間を包摂する完全無欠の普遍性を獲得することは出来ない。「正義」は普遍的なものとして語られなければならないが、実際に特定の「正義」が(「特定の」という文言は「正義」という理念の本質に最も相応しくない但し書きである)絶対的な普遍性を帯びることは有り得ない。そこには必ず個人或いは集団の歴史的な「偏向」が関与している。しかし、或る言説が「正義」として訴えられる限り、それは常に「普遍的な真理」としての装飾を身に纏うことを原理的に免かれないのである。

 言い方を換えれば、「正義」とは「普遍的な真実として位置付けられた行為や言説」の総称である。従って、私たちが信奉する「正義」に不動の実体は備わることがない。「正義」という観念的な領域には、如何なる論理も決断も代入することが可能である。「正義」は内容ではなく形式であり、認識における特定の様態を指す概念なのだ。

 「正義」が「普遍的な真理として認められた行為や言説」の総称であるということは、言い換えれば「正義」とは「真実」との間に絶対的な相関性を持たない「信仰」の一種であるということになる。重要なのは、特定の行為や言説が「真理」として信仰されるという人間の精神的な事実性である。内容の如何に拘らず、如何なる事実も「真理」として信仰され得る可能性を秘めている。或る共同体において「禁忌」として排斥されている行為が、他の共同体において「真理」として信奉され、崇拝されることは十二分に有り得る。「正義」は実体ではなく、いわば「属性」として理解されるべき観念なのである。

 しかし「正義」が実体を欠いているからと言って、人間の精神に及ぼす影響を過少に評価することは出来ない。「正義」は論理的な構築物ではなく、信仰と崇拝の対象であり、私たちの頭上に聖性を帯びて君臨している。「正義」に対する私たちの心理的な執着は、単なる推論の産物ではなく、寧ろそのような「正当化」の推論を生成する根源的な「理由」である。言い換えれば、何らかの事実が「正義」として承認されることに、絶対的な必然性はない。そこにあるのは常に恣意的な根拠だけである。この抽象的な可変性が、時に「正義」という名の凄まじい暴力を蔓延させる最大の要因であると言える。

 意識的であるかどうかを問わず、私たちは極めて簡単な心理的手続きを踏んで、個人的な好悪に過ぎない問題を「正義」の問題へと掏り替えてしまう生き物である。「正義」とは「それは真実であるという信仰」の異称であり、従って本来ならば個人の審美的な判断とは無関係に措定されねばならない。だが、「正義」という観念の有する本質的な無根拠性=無底性が、そうした規範を易々と踏み躙る原因として作用する。信仰は欲望の一種であり、そうであって欲しいという希求の道徳的な表現である。私たちは厳格な仕方で「好悪」と「正義」の基準を弁別することが出来ないのだ。そして、この危険な陥穽が古来、人類を出口の見えない不毛な係争に埋没させてきたのである。

 それならば「愛情」とは何か? 抽象的な言い方を用いるならば、「愛情」とは一切の事実の全面的な肯定と受容である。「正義」は「真実」の裏面としての「虚偽」を常に注意深く排除しようと試みる。言い換えれば「正義」は常に「審判」の要素を含み、事実の部分的な肯定と承認に血道を上げる営みである。だが「愛情」は、そうした弁別の原理と根源的に相容れない。「愛情」は総てを肯定し、総てを信頼するが、「正義」の側から眺めるならば、「愛情」の盲目的な包容力は危険な怠慢のように映じるに違いない。「愛情」の包容を「正義」の信奉者は「屈服」として定義する。

 逆説的な言い方を用いるならば、「愛情」は「正義」が目指すべき基準の普遍性を、「正義」とは全く異質な手続きを踏んで実現しようとする営為である。何故なら「愛情」は総てを包摂する全面的な肯定の働きであるから、必然的に個人の「好悪」という恣意的な尺度を超越せざるを得ないからだ。一般的な通念としては「愛情」こそ「好悪」という個人の審美的な基準に従属するものであるかのように考えられがちだが、本来的な意味の「愛情」は如何なる要素も無条件で肯定するという極限の性質を備えており、従って個人的な好悪は無条件に除外されてしまうのである。一方の「正義」は、自らを普遍的な価値の規範として捉えている為に、どうしても規範との「照合」という作業を省略することが出来ない。特定の規範に照合して対処の方法を定めるという手続き、即ち「審判」は、必ず特定の要素の「排除」という段取りを要請する。「正義」は「愛情」を特定の枠組みの内部に押し込むのだ。

 「愛情」は本来、論争という行為には馴染まない関係性である。だが、実に多くの「恋人」たちが下らぬ蹉跌や誤解に基づいて、度し難い論争の悪循環へ溺れていく。そこには「好悪」を「正義」で装飾することによって、相手を論破し、その非を立証しようとする苛斂誅求の精神が顕現している。だが、相手を論破することほど、「愛情」から遠く隔てられた行為は他に考えられない。「愛情」は常に沈黙と共感によって、あらゆる規範の根源的な「無底性」に向かって穏和な微笑を捧げる営みである。

Cahier(ラピュタ・宮崎駿・自然・人間)

*仕事を終えて十時過ぎに帰宅し、テレビの電源を入れると、金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」を放映しているところだった。

 金曜ロードショーで、スタジオジブリのアニメ映画の再放送に出喰わすことは、少しも珍しい話ではない。子供の頃、母親がVHSのテープにダビングした様々なジブリ作品を、腐るほど眺めて育った私にとって、テレビ画面に映し出される一つ一つのシーンは、懐かしいとすら感じないほどに記憶の表面へ色濃く刻み込まれている。にも拘らず、一旦見始めると視線を外せなくなるのは何故だろう。宮崎駿監督作品の卓越したクオリティの為せる業であろうか。

 宮崎駿という稀代のアニメーション監督の華々しい経歴を改めて顧みると、そこに二つの重要な主題が脈打っていることに気付かされる。一つは「自然と人間との相剋」であり、もう一つは「子供(特に少女)の成長」である。「自然と人間との相剋」或いは「テクノロジーの暴走」という主題が「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」の系譜に通じているとするならば、もう一つの重要な主題である「子供(特に少女)の成長」に関しては「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「千と千尋の神隠し」の系譜を計え上げることが出来る。

 例えば「ラピュタ」において、天空に浮かぶ巨大な城塞は、極めて高度な文明と科学技術によって構築された「人工」の極致である。その驚嘆すべきテクノロジーの神秘的な水準の高さは、地上に暮らす人々の想像を遙かに超越する次元に達している。

 悪役であるムスカ大佐は、太古の昔に滅亡したラピュタのテクノロジーを復活させ、地上を支配するという野蛮な夢想に駆り立てられている。彼の歪んだ情熱を、核兵器の威力に固執する北朝鮮金王朝に擬えることも不可能ではない。無論、そうした情熱は、固有名を備えた具体的な個人の特性に限られた話ではなく、そもそも「テクノロジー」に対する人類の根源的な野心に他ならない。

 こうした「テクノロジーへの欲望」が齎す種々の災禍という問題に就いて、宮崎駿という人物が一貫して強烈な倫理的関心を燃やし続けてきたことは、「風の谷のナウシカ」から「もののけ姫」に至るアニメーション監督としての経歴を徴すれば明らかである。極めて高度に発達した文明が何らかの理由で自壊作用を惹起し、無惨に滅び去った後の世界、というのは「ナウシカ」においても「ラピュタ」においても共通して登場する舞台設定であり、そこに「核戦争の時代」の宿命的な影響を読み取ることは必ずしも曲解であるとは言い難いだろう。宮崎駿のキャリアの集大成に位置付けられる傑作「もののけ姫」においても、踏鞴場を統括するエボシ御前は、製鉄技術という人工的な技能によって一つの集落を作り上げ、神々の暮らす森林と対峙している。その製鉄技術が環境を破壊し、森に住まう神々の瞋恚を購い、強烈な緊張状態を生み出すのである。「テクノロジーに対する欲望」が齎す種々の災禍に関する宮崎氏の倫理的意識は、極めて尖鋭である。

 しかし、そうした側面だけを強調して、宮崎駿という作家の本質を解き明かした積りになるのは、余りに偏頗な捉え方である。例えば監督自身が繰り返し「モラトリアム映画だ」と批判的な言及を行なっている「紅の豚」には、サン=テグジュペリの世界を連想させる古き良き「飛行艇時代」へのノスタルジックな感傷が横溢している。或いは「風立ちぬ」において描き出される堀越二郎(「零戦」の設計者)の姿には、紛れもない「テクノロジー」への強烈な欲望が噎せ返るほど浸潤している。言い換えれば、宮崎駿という人物の内側には「テクノロジーに対する強烈な欲望」が歴然と息衝いているのであり、監督の戦闘機に対する奇怪な偏愛を無視して、これらの作品に関する批評を試みるのは片手落ちである。

 テクノロジーに対する欲望と、それが尖鋭化した涯に齎される深刻で不可逆的な災禍に対する倫理的な苦悶は、宮崎氏の精神を苛む無限の循環として存在しているように感じられる。特に近代以降の科学技術の爆発的な発展は、テクノロジーが人間の制御を引き千切って暴走するという不穏で絶望的なイメージを、歴史の様々な局面において現実化してきた。その極点に存在するのが「核兵器」の凄まじい災厄である。ヒロシマナガサキ以降の時代に生きる人類にとって、テクノロジーの暴走という事態は常に悩ましい苦痛を齎す元凶として作用している。

 古来、自然の脅威は「人智を超えたもの」として扱われ、畏怖の念を以て眺められ、崇められてきた。しかし近代以降、自然のみならず「テクノロジー」もまた「人智を超えたもの」として振舞うようになった。人間の作り出した文明が人間自身を滅ぼし得るという皮肉な現象は、明らかに「近代」の特質であり、更に言えば「近代」に固有の宿痾である。だが、幾ら交通事故の死人が出ようとも、自動車そのものの廃絶という議論が声高に叫ばれることのないように、如何なる惨禍を齎し得るとしても、こうした「近代」の宿痾から逃れる為の退行が、国際的な意志として積極的に選択される見込みは乏しい。「人智を超えたもの」としてのテクノロジーと文明を棄却して、近代以前のプリミティブな世界へ回帰しようとする素朴な主張は、ロマンティックな美しさを湛えているとは雖も、現実的な有効性を持ち得ないだろう。

 「となりのトトロ」に描き出された里山の風景の美しさを単純に嘆賞するだけでは、宮崎氏の追究する課題の本質に触れたことにはならない。テクノロジーが「素朴な創意工夫」の次元に、言い換えれば「丁寧な手仕事」の次元に留まっていた牧歌的な時代を懐かしんでも、テクノロジーの暴走という近代的な「悪夢」の問題を解決することには繋がらない。「紅の豚」を「モラトリアム映画」として自己批判する宮崎氏の口吻には、そうした苦渋が滲んでいるように思われる。

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Cahier(解散・改革・希望・ポピュリズム)

*本日付で衆議院が解散した。総選挙の投開票が十月二十二日に設定されると共に、テレビ画面の向こうに広がる政治の世界は大荒れの様子だ。東京都の小池百合子知事が「希望の党」の代表に就任して結党会見を開き、離党者の続出でゾンビと化した民進党の前原代表は、小池劇場の類稀なる影響力に縋って「合流」の奇策を掲げ、愈々「安倍一強」の政局が覆されるのではないかという観測が俄かに強まっている。

 小池都知事が国政選挙に立候補する見込みが高まり、世上には批判的な意見も出現している。都政を放擲して、己の野望に衝き動かされるように衆議院へ鞍替えして、史上初の女性総理大臣に昇り詰めようと企てるのは無責任ではないか、という至極尤もな正論である。だが、そうした道義的な議論が、小池百合子という稀代の名優の決意を(現時点では未だ、彼女が衆議院の代議士に立候補すると確定した訳ではないが)覆し得るほどの威力を発揮するとは思われない。民進党の乾坤一擲の「捨て身の攻撃」で、自公政権の盤石な体制に風穴が開くかも知れないという「政権交代」の潮目が一挙に具体化してきた今、野心家の小池氏が「東京都知事」と「内閣総理大臣」の何れを天秤に掛けた上で選び取るか、と試しに想像を膨らませてみる。恐らくは「内閣総理大臣」の肩書に、政治家としての本能が、持ち前の立派な牙を突き立てたがるのではないか。

 端的に言って、小池百合子氏の都知事としての力量は、少しも明確な形では立証されていない。オリンピックの経費に就いても、築地市場豊洲移転問題に就いても、あれだけ華々しく啖呵を切って、改革の烽火を燃え上がらせた割には、何ら目覚ましい成果は上がっていないように見える。近年、急激に脚光を浴び始めた彼女の具体的な実績は専ら「選挙に勝った」という一点に尽きているのではないか。

 様々な報道を徴する限り、彼女の名優振りは図抜けている。弁舌は巧みであり、イメージ戦略で人心を籠絡する術に長けている。安倍晋三氏が「アベノミクス」というキャッチフレーズで知られる経済的なポピュリストであり、米国の尊大且つ差別的な元首の尻馬に乗って、北朝鮮に対する強硬な態度(「対話」よりも「圧力」を重んじると国連総会で演説してしまうほどの強硬な態度)を演出してみせる軍事的なポピュリストであるとするならば、小池氏は嘗ての環境大臣の経歴を活かすかの如く、只管に「クリーン」なイメージを打ち出すことに長けたポピュリストである。言い換えれば、既成の「腐り切った旧弊な政治」を打破して、希望に満ちた社会を作り上げる改革勢力、という演出に抜群の才能を示すポピュリストであるということだ。かつて小泉総理が「改革」の旗幟の下に、分かり易く単純化された「保守/革新」の構図を濫用して、大衆の浮動的な人気を収攬したように、小池氏もまた、具体的な中身を示さぬままに「改革」のイメージだけで、自民党に対する反感の政治的な受け皿というポジションを狡猾にも独占しつつある。

 無論、民意に基づくデモクラシーの制度が政体の要に採用されている国家において、有能なポピュリストであり、饒舌なスポークスマンであることは少しも罪悪ではない。だが、有能なポピュリストが誠実なポピュリストであるという論理は、特別な但し書きを省いては成立しない。安倍内閣に対する反感が、小池氏に対する漠然とした期待(文字通り、それは「希望」に過ぎない)に横滑りすることは大いに有り得るし、東京都議会における自民党勢力の惨敗は、そうした大衆の政治的感情を事実として証拠立てている。だが、安倍内閣と小池氏の来るべき「政権」との間に、決定的な差異を見出すことが可能かどうか、私は懐疑的である。彼女は今般の総選挙において、安倍政権に対する世間の不満を大いに活用するだろうが、それは彼女が安倍氏と比較して、遙かに優秀で国益に適う内閣総理大臣になれる逸材であることの証明にはならない。そもそも、彼女が安倍内閣と全面的な「対決」の方針を貫くかどうかも不透明である。実際、共産党社民党は「希望の党」に関して「自公政権の補完勢力に過ぎない」という言い方で批判を行なっている。細目に関しては兎も角、小池氏も安倍総理の悲願であると言われる「憲法改正」そのものに就いては、肯定的な方針を表明している。骨太の「護憲政党」を自任する共産党の立場から眺めれば、自公政権と小池新党は幾らでも「野合」が可能であるように見えるのだろう。

 現在の小池人気は、政治家としての具体的な実績に基づくものであると言うより、彼女の「選挙屋」としての卓越した技倆に由来するものである。「希望」という口当たりのいいフレーズ、印象的なシンボルカラーとしての「グリーン(クリーン?)」を巧みに操る視覚的な(つまり、テレビ・ネット的な)表現のセンス、世間からは悪党にしか見えない屈強な面構えのオッサン代議士たちを相手に派手な喧嘩を仕掛けてみせる気風の良さ、その「姐御肌」的なイメージ、オリンピックでも築地でも、一旦決まった事柄を平気な顔で引っ繰り返そうとする「改革」のイメージ、兎に角「イメージ」だらけのホログラムのような人気が、バブル期の株価のように異常な暴騰を示して、国政の舞台を騒々しく鳴動させている訳である。

 そうした現在の過熱した人気が、そんなに永保ちするものでもないことは、聡明な小池氏自身、充分に認識されているだろう。本来ならば大して日の当たらない都知事の職に留まり、オリンピックや築地市場の移転に関して地道な議論と根回しに骨を折り続けるより、自身の存在感が未だ鮮度を保っているうちに一世一代の博打に踏み切り、結果はどうあれ、史上初の女性宰相の椅子を奪い取ってしまうという筋書きは、彼女にとっては劇しい魅惑に満ちた青写真ではないか。

 だが、政権を勝ち得た後で、どう考えても烏合の衆に過ぎない「希望の党」の代議士を引き連れて、一体彼女がどのような活躍を示すのか、私にはよく分からない。無論、私の想像力の度し難い貧困が、そのような懐疑の培地であることも事実だろう。しかしながら、実際に都知事の職責を擲って国政の現場へ鞍替えするとしたら、総理大臣になった後も、適当なところで仕事を切り上げてしまうかも知れない、という虞は決して根拠を欠いた代物ではない。

 何れにせよ、今回の解散総選挙で「安倍晋三」と「小池百合子」以外に主役級の人物を想定することは難しい。民進党の「合流」という、恥も外聞も投げ捨てた上での奇策に就いて「野党四党の提携の合意に叛くものだ」と憤る共産党の志位委員長の発言に、真摯な関心を寄せる有権者は、既存の支持者の中にしか存在しないだろうと思われる。今回の選挙の争点を「独裁者・安倍晋三を斃せ」という特撮戦隊ものレヴェルの筋書きにまで絞り込めたら、そして「独裁者に抗う義勇兵の集まり」のようなイメージで、烏合の衆である野党勢力を一つの旗幟の下に糾合し得たならば、政権交代は現実の奇蹟として、選挙速報の中継画面をクラッシュさせるだろう。