サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 七 書記課事務室

 要するに生贄に選ばれたのだと、館長室を辞去した後の廊下で私は思い当たった。内乱で夥しい数の難民を吐き出すほど秩序の壊れている隣国ダドリアへ、官兵の眼を盗んで弾薬を送り届けるなど、正気の沙汰ではないと一蹴するのが、健全な常識の持ち主には相応しい反応であろう。恐らく腕利きの外交員たちは、商館長の命令に様々な言い訳を見繕って徹底抗戦したに違いない。モラドール氏の立場としても、優秀な人材を危険な博打へ充当するのは望ましい選択ではない。色々と遣り繰りをした結果、日がな一日事務所の卓子に顔を埋めて書類の処理に明け暮れている私のように人畜無害な男が、決死の弾薬輸送の監督官に抜擢されたという訳なのだ。
「君には期待している。この計画には、商会の名誉が懸かっているということを忘れないでくれたまえ」
 だったら、もっと荒事に慣れた人間を選抜すべきじゃなかったのかと毒づきたくなる。大体、ダドリアの共和制移行の阻止だとか、ビアムルテ州に氾濫する哀れな難民たちの取扱だとか、そういった重要な政治的問題と、ジャルーアの中堅商会の何の取り柄もない壮年の書記官の命運が結び付くことが、そもそもの間違いだと言えるのではないか。私は平和と倦怠を愛する善良な皇国の市民に過ぎず、同盟国であるダドリアの艱難には無論、通り一遍の同情を捧げるに吝かではないものの、単なる庶民としての分際を飛び越えて、地域の安寧の為に挺身するような殊勝な勇気とは無縁なのだ。私は夜露を凌げる寝床と極めて平均的な水準の食事、そして友人との他愛のない語らい、今は生憎切らしているが特別に刺激的でなくても構わないので近日中に欲しいと思っている異性との交情、そういった凡庸な愉しみさえ得られれば満足なのである。輝ける名誉、商館員としての度外れな栄達、王室からの不遜な感謝状など、煌びやかな脚光には不似合いな人格であることも、他人に指摘されずとも私自身が一番明瞭に弁えている。物蔭、暗がり、部屋の隅っこ、そういう場所で特に誰の注目も浴びずに静かな日々を送ること、それ以外に特別な翹望など持たない私に、こんな重要な仕事を割り当てる商館長の不可解な蛮勇が、そのときは只管に恨めしかったのを覚えている。
 暗い気分で書記課の事務室へ戻ると、昼餉から帰ってきた同僚たちの興味津々の眼差しが霰の如く降り注いで、私は猶更居心地の悪い、陰鬱な気持ちに落ち込んでしまった。先輩格の一等書記官メリスタン・トリファーが例によって紙巻の安莨を銜えてニヤニヤしながら近寄ってくるのを視界の端に捉えると、陰鬱は絶望へと瞬く間に毛色を変えた。
「どうした、パドマ。随分と顔色が悪いじゃないか。商館長閣下に怒鳴りつけられたのか?」
「私のことは放っておいて下さい、トリファーさん」
「そう邪険にするなよ。こっちは心配して声を掛けてやってるんじゃないか。頼りになる先輩に内なる悩みは全部吐き出してしまえよ。少しは気分も楽になるだろうさ」
 一見すると物分かりのいい良心的な先輩のような態度だが、トリファー一等書記官はそれほど誠実で善良な人格の持ち主ではない。明るい茶色の癖毛を無造作に撫でつけた面長の顔立ちで、鳶色の瞳は何時でも底意地の悪そうな光を湛えてきょろきょろと素早く動き回り、他人の落ち度や失錯を見逃すまいと尖り切っている。ジャルーアへ来た当初、右も左も分からぬ新米書記官だった私に仕事の基礎を一から教えてくれたことは事実だが、その恩義を笠に着て十年が過ぎた今も偉そうに見下したり揶揄したりしてくるので、率直に申し上げて尊敬に値する先輩とは言い難い。
「商館長閣下から直々に御声が掛かるなんて珍しいじゃないか。何か飛んでもない失態でも遣らかしたのか?」
「若しもそうだったなら、寧ろ気楽に笑っていられるかもしれないんですがねえ」
 意味深な私の返答に、メリスタンは幾分当てが外れたような顔をして、卓子の端に掌を突いた。
「おいおい、どうしたんだよ。やけに焦らすじゃないか」
「焦らしてませんよ。ウンザリしてるんです」
「訳を話せよ。ほら、此処にはお前の味方しかいないんだから」
 本当かよと心の奥底で毒づきながらも、実際には商館長閣下から直々に不可解な密命を重たい荷物のように突然背負わされた所為で、知らず知らず気弱になっていたのだろう。鼈(すっぽん)のように一度喰らいついたら絶対に放そうとしないメリスタンの性格も知悉しているので、彼の質問攻めを最後まで躱し続ける労力を支払えずに、程無く私は口を割ってしまった。密命であることは間違いないし、安易に口外すべき事柄ではないのだが、本当にダドリアへ向けて出発することになれば、同じ部署の仲間たちに何も告げずに街を離れる訳にはいかないのだ。
 要点を掻い摘んで説明するうちに、メリスタンだけでなく他の同僚たちも好奇心を掻き立てられて私の机の周りに集まり始めた。書記課長を務めるジーレム・アステル首席書記官の姿は見当たらない。まさか商館長閣下と私をダドリアの死地へ片道切符で送り込む為の算段でも話し合ってるんじゃあるまいかと気になったが、この期に及んで邪推を重ねるのは無益だろう。
 一通り話を聞き終えた後で、メリスタンは珍しく真剣な面持ちで私の肩を叩いて言った。
「パドマ。送別会は何処の店で遣ろうか」